美少女の姿がないと、練習していても身が入らない。
休憩時間、壁にもたれながら溜め息を洩らした直後、友梨香が申し訳なさそうな顔で近づいてきた。
「ごめんね。お姉ちゃんから怒られちゃった。まさか、澪があんたのことを好きだったなんて、全然気づかなかったよ。こんなにがさつだから、元彼にもフラれちゃうんだよね」
勝ち気な少女は、珍しくシュンとしている。
「いえ……いいんです。僕が全部悪いんだから」
「あの子、もしかすると……新体操部を辞めるかも。もうクラブには、出たくないって言ってるの」
「一昨日、電話で杏奈先生から聞きました。それよりも、澪ちゃんの様子は大丈夫なんですか?」
「……うん。見かけは、いつもと変わらないよ。でも澪は、昔から自分の感情をあまり表に出さない子だったから……」
「……そうですか」
「私も、すごく謝ったんだよ。卓郎君は悪くない、私が悪いんだって言ったんだけど、その話をすると、そっぽを向いちゃうの」
「やっぱり、怒ってるんでしょうね」
「怒るなら私に怒ればいいのに、私たち三姉妹って異常なほど絆が強いから……。たぶん怒りの矛先が、すべて卓郎君に向いているんだと思う」
無垢な少女には、愛する男に裏切られたという気持ちのほうが強いのかもしれない。
「とにかく、もう少し待ってくれる? お姉ちゃんと相談して、何とか説得してみせるから」
友梨香の申し出にも、卓郎は力なく笑うことしかできなかった。
先週の土曜日までは全身に活力が溢れていたのに、今は魂の抜け殻のようだ。
再び小さな溜め息をつくと、練習再開を告げる杏奈の声が響き渡った。
「私が言うことじゃないけど、元気を出して」
「ええ、ありがとうございます」
肩をポンと叩かれ、友梨香が部員たちのもとに駆け寄っていく。
(とにかく……練習だけは、ちゃんとこなさないと)
俯き加減であとに続くと、今度は杏奈が近づいてくる姿が視界に入った。
「清瀬君」
「あ、は、はい」
「ちょっと、いいかしら?」
「な、何でしょう?」
「あなた、ゴールデンウィークは何か予定が入ってるの?」
「いえ……別に何もありませんけど」
「……そう。あ、ごめんなさい。練習に戻っていいわ」
澪の情報が聞けるかと、一瞬色めき立ったものの、卓郎は想定外の問いかけにがっくりと肩を落とした。
(そうか。今週末から、本格的なゴールデンウィークに入るんだった)
気落ちのあまり、頭の中からすっかり抜け落ちていたが、ゴールデンウィークは映画や遊園地デートをするのに一番最適な期間ではなかったか。
(今の状況は、もうデートどころじゃないか)
卓郎は自嘲気味の笑みを浮かべると、クラブ競技の指導をしている友梨香のもとに駆け寄っていった。
(まさか……またここに来ることになるなんて)
ゴールデンウィークに突入した週末の土曜日、卓郎は川村家の別荘に向かっていた。
杏奈は、卓郎と澪の仲を修復させようと、あれこれ考えていたようだ。
彼女の提示してきた案が、ロッジでの澪との引き合わせだった。
別荘には澪の他、杏奈と友梨香が滞在している。
塞ぎこんでいる末っ子を元気づけようという名目の旅行らしく、もちろん澪は、卓郎の来訪をいっさい聞かされていないとのことだった。
(ああ、緊張するなぁ。まともに話をするのは、一週間ぶりだもんな)
昨日は学校の廊下で顔を合わせたのだが、話しかけようとしたとたん、美少女は逃げるように走り去ってしまった。
果たして、女教師のアイデアは吉と出るのだろうか。
ロッジの前に到着すると、リビングに面した窓から明かりが漏れている。
ジャンパーのポケットから携帯を取りだした卓郎は、杏奈のアドレスを開き、通話ボタンをプッシュした。
〈……はい〉
「あ、清瀬です。今、ロッジに着きました」
〈あ、ちょっと待って〉
そばに澪がいるのだろうか、しばしの沈黙が流れる。
やがて玄関の鍵を開ける音が聞こえ、扉が微かに開かれた。
杏奈が隙間から顔を覗かせ、無言のまま手招きをする。
恐るおそる近づくと、手首を掴まれ、強引に中へと引きずりこまれた。
「しっ!」
女教師は右手の人差し指を口にあて、横目で廊下の奥に視線を走らせる。
リビングから、澪のやや甲高い声が聞こえてきた。
「友梨香お姉ちゃんが、全部悪いんだからね!」
「わかった、わかった。だから、何度も謝ったでしょ。私が責任をもって、卓郎君と仲直りさせてあげるから」
「いいっ! そんなことしてほしくないもん!!」
「じゃ、いったいどうしろって言うの? あんたがそんな頑固な性格だったなんて、今まで知らなかったわ」
会話の内容を聞いた限りでは、澪は友梨香を責めているようだ。
卓郎は玄関口に佇んだまま、目を丸くしていた。
清楚で淑やかな美少女は、確かに感情を露わにするようなタイプではなかった。
実際に初対面のとき、姉たちの常識外の振る舞いにハラハラしているだけで、諫めることすらできなかったのだ。
三姉妹の仲は非常にいいという話も聞いていたが、なぜ今頃になって激高しているのだろうか。
その謎は、杏奈の次の言葉で氷解した。
「ロッジに来てからも、ずっと沈みこんでいたから、ジュースにちょっとお酒を混ぜたの」
「え!?」
「しっ!」
杏奈は声を潜め、腕をそっと引っ張る。