小雪の通う、清芳学園は中高一貫した人格教育を行う、名門の私立学園として近在に知られている。躾というか情操教育も徹底しており、今しがた下呂井が述べたとおり生徒手帳の携行は義務づけられ、毎朝各クラスのSHRで確認し、その一部をその日の当番になっている生徒が朗読する習慣がある。もし、その場で自分の生徒手帳を保持していなかったり、紛失した場合、検察(警察ではナイ!)の尋問まがいの取り調べが行われるというのが専らの噂だった。
(どうしよう? どうしよう? どうしよう??)
不安と絶望がないまぜになって、小雪の頭の中をぐるぐると駆け巡る。厳しくもあるが普段はとても優しい母親の心配顔と、自分を本心から可愛がってくれる父親の困惑した顔が、熱く重たくなったまぶたの裏に浮かぶ。
(……どんなコトをしても、(生徒)手帳を取り返そう。……どんな犠牲を払っても、このコトを秘密にしてもらおう)
(そう、どんなコトをしても!)
悲壮な決意を固め、自分でもわからない理由でBカップのブラジャーの下で縮こまったように乳首を尖らせる小雪の、霞みがちになる視界にオトコ物の細長い靴が入ってきた。下呂井のモノだった。
「待たせちゃったね」
下呂井はそう言ったが、時間にして数分ほど、十分にも満たなかったに違いない。
しかし、下呂井は小雪のただならぬ気配に気が付いた様子だった。
はあ。
ひとつため息をつくと、ハンカチを差し出してきた。
「涙を拭きなさい。それとも自分のを使うかね?」
「……」
小雪は黙ったまま、頭を振り、そして大きくうなずいた。そして黒と白のタータンチェック柄をしたスカートにあるポケットから、ハンカチを取り出してきて、目元をぬぐった。そんな様子を見ながら、下呂井は声をかけてきた。
「少しだけ話をしよう。ついてきなさい」
思いがけないほど、穏やかな声調に気づいた小雪が顔を上げた時、下呂井はすでに歩き出していた。
小雪は後を追った。
下呂井が小雪を連れ込んだのは、ホテルなどではなく、『談話室』という名前の、長い間話し込みの出来る喫茶店だった。小雪としては連れ込み宿などではなく、一安心したが、それでも油断できなかった。もちろん、校則では生徒の立ち入りは禁止されているが、保護者同伴なら構わない。この場合、やはり下呂井が、小雪の保護者というコトになってしまうのだろう。小雪としては「ゲロキモ」という、芳しからざる評判のある男性教師の被保護者になるコトは容易に認めることはできないが、ココは我慢しなければならなかった。
下呂井は受付で身分証明書を提示し、個室を求めた。幸い空きがあり、二人は店の一角にある個室に通された。
入室するやいなや、下呂井は「ボクはブレンド。この娘にはココアを」と素早く小雪の分まで注文して、名門私学の制服を身にまとっている少女に興味津々でいる店員を追い払った。
小雪が椅子に座ると、差し向かいに座った下呂井が、机の上に小雪の生徒手帳を差し出した。
「返しておくよ」
──!──
何の条件も出さず、また何も聞かずにいるうちに自分の手元に返ってきた、戻ってこようとしている生徒手帳に小雪は少なからず驚いていた。しかし、下呂井はさらに小雪が驚くものを差し出した。
それは平たい袋に包まれたモノだった。
中が分からず、表情の選択に戸惑っている小雪に、下呂井は実にさりげなく、その正体を告げた。
「さっきの本だよ。ちゃんと買ってきたよ。レシートもある」
──!!──
そう言って下呂井は驚愕を隠せずにいる小雪に差し出した本の上に、レシートを乗せた。
下呂井の言葉通り、小雪にとって見慣れた印字のあるレシートだった。
小雪にとっては想像していた事態とはまったく異なる成り行きに戸惑わずにはおれない。
(「なぜ、キミは万引きしたんだね!?」となぜ詰問しないの?)
(「親や学校に知られたくなかったら、俺の言うことをきけ」って、なぜ脅迫しないの?)
などと、逆に問いただしたかった。
また、そうしようと思っていた寸前、注文していたココアとコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせしました」
「……」
小雪は押し黙ったまま、自分の前にココアが置かれるのをじっと見ていた。その様子を下呂井が柔らかな笑みを浮かべながら、注意深く観察している。
「ご注文は以上で宜しいでしょうか?」
「ああ」
「……」
「それではごゆっくり」
好奇の視線を小雪と、その差し向かいに座っている中年男に走らせながら、ウェイターは丁重に頭をさげ、部屋から出て行った。
ふぅ。
下呂井が大きく上に息を吐き出した。その様子がいかにもカマキリが一服しているようで、なんだかおかしかった。
「ここのココアは、まあ、飲めるよ」
下呂井はそう小雪に勧めた後、怪訝な表情を浮かべた。
「ココア、嫌いだったかな?」
「……」
小雪は小さくかぶりを振った。
「よかった。それじゃあ、白瀬……クンでいいかな?」
小雪は『キタ』と思った。そして全身を強張らせた。これからの展開が妄想され、目頭が熱くなり、心臓が激しく高鳴る。
はあ。
緊張感と警戒心を全身から漲らせている女子学生に、下呂井は大きなため息をついてみせる。