「この時の決め手になったのは、似た事例で、すでに最高裁の判決が出ていたことね。ええと……昭和四十年だったかしら」
「確認してみます。……あ、ああ、所長の言うとおりでした」
美女の香りを嗅ぎ、体温を感じ続け、一時間も経つ頃には、正太郎は眩暈を起こしかけていた。
それでも一応、平静を装えていたつもりなのだが──。
「吉尾君……弁護士でも探偵でも、ポーカーフェイスは必要よ?」
重要箇所の説明が終わったところで、にこやかに注意されてしまった。
「……精進します」
項垂れたくなる正太郎だ。自分が未熟で、未だ所長と釣り合わないことを、再確認させられた。
それにしても──。
「所長は内心を隠すまでもなく、常に堂々としてますよね。俺も早く見習いたいです」
途端に眞由美は、心外だと言いたげに小首を傾げる。
「あら、私だって日々迷いを隠して過ごしてるのよ? 世の中の大人のほとんどは、似たようなものじゃないかしら」
「……そうなんですか?」
「まあ、吉尾君が落ち着けないのは、秘密の『勉強』が半端なところで止まっているせいかもしれないわね。君さえ良ければ、今度続きをやりましょう?」
「え、ぅ、えっ!?」
目を瞬かせてしまう。
対する眞由美は微笑みつつも、顔を逸らそうとしなかった。だから、本気だと分かる。
(ま、また、あんなことを……っ!?)
時期尚早と自分へ言い聞かせていたはずなのに、期待で胸が高鳴った。
その時だ。煩悩を叱るように、ポケットの中のスマホが振動を始める。
「ぃっ!?」
不意を打たれたため、バイブレーションは全身へ響くよう。手を滑らせそうになりながらも、取り出して画面を見れば、犬探しで知り合った洋館の少女、井上瑠実からだった。
「ちょ、ちょっと失礼します……!」
雇い主に断って電話へ出ると、強気な声が聞こえてくる。
『正太郎よね? シレの写真だけど、明日持ってこられる?』
「あ、ああっ……うんっ、瑠実の都合のいい時間で大丈夫だ……っ」
少女に合わせて、最近では正太郎も、相手の名前を呼ぶようになっていた。
そして写真ならば、先週末に野呂家を訪ねて、バッチリ撮ってある。
「じゃ、よろしく。……後、そこにアイツもいるんでしょ? 替わってよ」
「……あいつ?」
「鈍いわね。例の嫌味な女よ」
ここまで敵意をむき出しにしておいて、どんな用件なのだろう。
正太郎は警戒したが、ともかくスマホを眞由美へ渡した。
「……所長にも用があるそうです」
「そうなの?」
眞由美はスマホを耳に当て、何事か話し始めた。といっても、主に喋るのは瑠実の方で、女探偵は相槌ばかり。間もなく通話が終わり、スマホは青年へ返された。
「頼みがあるから、明日は私にも来てほしいんですって」
「……何事でしょうね?」
さすがにもう、顔の火照りも引いている。怪訝に思う青年へ、眞由美は混じりっ気なしの笑顔を見せた。
「内容は教えてくれなかったけれど……でも井上さんとは、今度こそ仲良しになりたいわ」
多分、瑠実は電話でもケンカ腰だったろう。なのに眞由美は、頼られたことを素直に喜んでいる。
野呂創と接する際も、歳の離れた姉さながらに親身だったし──とても子供好きな人なのかもしれない。
「……うちに幽霊が出たのよ」
翌日、シレの写真を確認した後で、瑠実は顔をしかめながら言ってきた。
もっとも、怖がっているというより、気持ち悪がっている様子だ。
眞由美もソファーに座ったまま、姿勢を正した。
「詳しく聞かせてくれる?」
「当たり前でしょ。そのために呼んだんだから」
相変わらず、女探偵へ突っかかりながらも、瑠実は語り始める。
木曜──つまり正太郎へ電話してきた前の日のこと。
真夜中にトイレで用を足した彼女は、部屋へ戻りかけたところで、一人の怪しい女を見かけたそうだ。女は白いゆったりしたドレス姿で、階段をフラフラ降りていたという。
「井上さんは二階にいたのね?」
「そうよ。トイレもあたしの部屋も、二階にあるの。トイレは階段の脇ね。で、女は後ろ姿だけで顔が見えなかったけど、絶対にこの家の人間じゃなかったわ。これ、おかしいでしょっ?」
「そうね……。この家には誰が暮らしているの?」
「あたしとパパ、他に住み込みのお手伝いが二人よ。昼は通いの家政婦もいるわね。同情されたくないから先に言っておくと、お母さんは、あたしが小さい時に死んじゃったわ」
色々な意味で、正太郎とは縁遠い家族構成だ。
ともあれ、瑠実がこっそり尾けると、女は書斎へ入っていった。瑠実も二、三分ばかり迷ったが、意を決してドアを僅かに開け、隙間から中を覗いた。すると──。
「書斎は真っ暗。窓にも鍵が掛かってたのに、女がいないの!」
驚いた瑠実は電気を点けて、書斎をよく調べたが、それでも女は見つからない。
「で、二階に戻ってパパの部屋へ行ったら、寝ぼけたんだろうって馬鹿にされて……。朝になってお手伝い達へも話したけど、適当に流されちゃったのよっ……。絶対、変な女が忍び込んできてたのに!」
だんだんムキになってくる少女に、正太郎は野呂創の依頼を思い出した。
頼れる大人が近くに見つからない点で、瑠実も彼とよく似ている。だからこそ、眞由美へ声を掛けるしかなかったに違いない。