「……おおい、元の飼い主のところへ連れて行ってやるぞ? だから安心して出てこーい」
宥めるように声をかけたが、むしろ唸り声は不穏に低くなる。迂闊に刺激を続けたら、逆ギレで噛みつかれかねない。
「……どうします?」
正太郎が溜息混じりに眞由美を見上げると、瑠実が遮るように胸を張った。
「ほら邪魔。どいてよ」
彼女は正太郎を押しのけて、小屋の前で身を屈める。
「平気よ、シレ。出て来なさい」
小さな手を気弱な犬へ差し伸べ、催促するように上下。と、まるで言葉が通じたように、シレはおっかなびっくり這い出てきた。
一週間足らずのうちに、両者はすっかり打ち解けたらしい。
「……驚いたな」
「すごいでしょ? これって、あたしが飼い主のところへ連れてくしかないんじゃない?」
偉そうに鼻を鳴らした少女は、小屋の脇に立ててあった杭からリードを外して、片手に握った。一緒に行く気満々だ。
だが、女探偵も動じない。
「次は私が試してみるわ」
言って、バッグから犬用のジャーキーを取り出す。それがシレの大好物なのは、すでに飼い主の創から聞いてあった。
そうして膝を曲げてしゃがみ込めば、
「……!?」
ムッチリした太腿どころか、タイトなスカートの中まで、正太郎の位置から見えかける。
青年がギョッとたじろいでいる間に、眞由美は瑠実がやったのと似たリズムで、ジャーキーを振り始めた。
「シレ君っ、おいでおいでっ」
呼び声はハキハキと明るく、正太郎よりずっと犬の扱いが得意そうだ。
「ふん。そんなものにシレは──」
対抗心むき出しで瑠実も言いかけるのだが、当のシレは逡巡するような間を置いた後、女探偵へ慎重に近づく。そしてジャーキーをパクリ。
すかさず眞由美が梳くように毛並を撫でると、安心できたのか、地面へお腹を付けて、肉をのんびり味わいだした。
瑠実は友達に裏切られた気がしたらしい。
「くっ……わ、分かったわよ! だったら早く連れてっちゃえばいいじゃないっ!」
大声で怒鳴るや、女探偵が呼び止めようとするのも無視して、屋敷の表の方へ走っていってしまった。
顔を伏せていたのは、悔し涙を隠すためかもしれない。
「どうしましょうか?」
正太郎は、自分が悪者みたいに思えてくる。このまま終わらせるのは、後味が悪かった。
眞由美も少し反省気味で、
「屋敷の人には挨拶しないといけないわね。でも、井上さんは無理に呼んでも、ヤブヘビになりそうだわ。後で改めてお礼に来ましょう」
「……それが無難かもしれませんね」
ひとまず、シレと創を引き合わせる方を優先することになった。
野呂創の家は、建てられて間がなさそうな、小さい一戸建てだった。
そしてシレを見るなり、創は幼い顔を嬉し泣きでクシャクシャにして、大事な家族へ抱きつく。頬ずりまでする。
「良かった! シレ、お帰り! お帰り! もう迷子になんてさせないからねっ!」
最初は驚いて身を捩りかけたシレも、すぐ懐かしい匂いで安堵したように、短く丸まった尻尾を振りだす。
「親切な人が、シレ君を見つけて世話してくれていたのよ。それでね……」
瑠実の身元を伏せたままで事情を説明すると、創と彼の母親も、写真撮影の許可を出してくれた。
そんな訳で、少女との間にしこりは残ってしまったものの、正太郎にとっての初仕事は、どうにか成功に終わったのである。
「めでたしめでたし、ですね」
探偵事務所に戻った青年は、ボロソファーに片手を置きながら、満足感を噛みしめた。
眞由美の方も、肩の荷が下りた雰囲気だ。
そんな彼女へ、正太郎は先ほど中途半端になった問いを、もう一度したくなる。
「所長はさっき、俺がどんな説得するか知りたかったって言いましたよね。あれ、採用試験みたいなものだったんですか?」
すると眞由美は静かに首を横へ振り、
「違うわ。君なら真っ直ぐな答えを出しそうって、私、勝手に期待していたの」
「……はい?」
どうしてそこまで買ってくれたのだろう。雇われて、実質まだ二日目なのに。そもそも、最初はスパイとしてここへ来たのだ。
疑問が顔へ出やすい青年に、眞由美は微苦笑を浮かべた。
「自覚がないのね、吉尾君。私が君を雇った決め手は、その真っ直ぐさなのよ」
「えっ?」
「ふふっ。犬を探してって依頼が来た時、君はね……」
一歩、二歩と距離を詰めてから、女探偵が照れくさそうに見上げてくる。
「会ったばかりの男の子を助けたくてしょうがないって、そういう顔をしていたんだから」
ものすごく恥ずかしいことを言われた気がして、正太郎は頭へ血が上った。頬の熱は面接時さえ軽く超え、立っていたらよろけそうだ。
そのタイミングで、眞由美から囁かれた。
「私、君には真っ直ぐなままの弁護士へ育ってほしい。だからこそ……異性に対処するための指導、私にさせてくれないかしら?」
「ぁ……う……えっ……」
「どう、かしら?」
衝動的に口を開けたところで、さらに身を寄せられて。とうとう正太郎は首を縦に振ってしまった。
自分がどう動いたか悟ったのは、一呼吸置いた後だ。
ますます全身が火照ってくるものの、取り消す気にはなれなかった。
恋愛感情とは別ベクトルだが、眞由美は自分を認めてくれている。その上で求められたのだと思うと、最初に迫られた時のような胸の痛みを感じない。