女探偵眞由美の誘惑事件簿

そのまま事務所のある三階まで来ると、瑠実も諦めたらしい。

「分かったわよ。ちゃんと寄るってば! あんた、初めて会った時より強引になってない!?」

「ん? そうか?」

正太郎は手を離す。

そのまま事務所まで行ってドアを開けると、眞由美はいつも通り、デスクの向こう側にいた。

「お疲れ様、吉尾く…………あら、井上さん?」

さすがの女探偵も、瑠実が一緒に来たのは予想外だったらしい。

しかし、すぐに笑みを浮かべて立ち上がり、小さな客を出迎えた。

「いらっしゃい、井上さん。次の仕事まで、後一時間半ぐらい余裕があるの。それまでお喋りしていけないかしら?」

「もう似たこと、正太郎に言われた。だから来たのよ」

「そうだったの。じゃあ、すぐにお茶とお菓子を用意するわ」

事務所の主は自ら、いそいそと給湯室へ入っていく。子供に親切なのは下心ゆえ──なんて言っていた彼女だが、それだけでは説明のつかない、優しげな笑顔だった。

お茶の用意ができて、正太郎達はローテーブルを挟んでボロソファーへ座った。

「で、親父さんとはどうだ? 上手くいってるか?」

単刀直入に問えば、当然と言いたげにふんぞり返る瑠実だ。

「もちろんよ。あたしだって、パパの映画とか趣味は前から知ってたもん。女装ぐらいで、いつまでも驚いてられないわよ」

「ふふっ、もう全然気にしていないのね?」

「逆にパパがあたしへ遠慮してるわね。時々、変な声で機嫌を窺ってきて、そっちの方が気持ち悪いぐらい」

眞由美へ突っかからないのは、今度こそストレートに感謝したからだろう。

しかし、正太郎は首を傾げる。

(家庭の事情じゃないとすると、何の用があるんだ?)

特別な目的で訪ねてきたことは、眞由美も察しているだろう。ただ、催促するつもりはないらしい。

しばらく他愛ない世間話が続いた。

やがて、瑠実が「ね、ねえ」と口調を変えてくる。

おっ──と正太郎が身構えると、彼女はおずおずと上目遣いで、

「シレの飼い主の連絡先って……やっぱり教えてもらえない?」

それが本題らしい。

難しい問題でなくて良かったと思う反面、少し呆れてしまった。

「写真なら、瑠実が満足するまで見せるって。それで妥協してくれよ」

「わ、分かってるわよっ……でもっ」

その時だ。眞由美がおかしなことを言いだした。

「ええ、依頼人の身元は明かせないわ。だけど、もしも井上さんと私に共通の知り合いがいて、名指しで伝言を頼むなら……引き受けられると思うの」

「え? そ、それって……」

目を瞬かせる瑠実に、眞由美は勇気を送るような微笑。やがて彼女らの間で、何かの了解が成立したらしい。

瑠実は茶碗をローテーブルへ置き、つり上がり気味の瞳を伏せた。そして消え入りそうな声を搾りだす。

「だったらお願いっ、あいつに……創に伝えて! 『嫌なことを言ってごめんなさい。本当は……ずっと謝りたかった』って……! あたし、あいつと仲直りしたいの!」

勝気な彼女に似合わない、しおらしい態度だ。しかし、正太郎はセリフの中身にこそ驚かされる。

(シレの飼い主の住所を聞きたがってたのは、それが動機か……!)

考えてみれば、腑に落ちる部分もあった。

シレは猫から逃げ出すほど気が弱いのに、独特の威容を持つ屋敷の庭を選んで逃げ込んだ。しかも、瑠実の指示へすんなり従うほど懐いていた。

ずいぶん仲良くなったものだと、あの時は感心させられたが、犬に慣れている探偵ではあるまいし、いくらなんでも急すぎる。

要するに迷子になる前から、シレと瑠実は深い馴染みがあったのだろう。

おそらく、眞由美も早い段階で、それに気付いていた。だから、妙な提案をしたのだ。

「……ごめんなさい、井上さん。意地悪したくて、こんな言い方をした訳じゃないのよ?」

「うん……分かってる。探偵には守秘義務っていうのがあって、抜け道を用意しなきゃいけなかったんでしょ?」

「ええ」

次の瞬間、瑠実がパッと顔を上げた。瞳にあるのは、訴えかけるような色だ。

「あんたが嫌な女なんかじゃないことも、もう知ってるからっ……。創があたしの知らないところで、綺麗な大人と仲良くなってたのが嫌だっただけっ。ごめんなさい……! それと、色々ありがとっ。眞由美、先生……っ」

(そういえば、創も『先生』という呼び方をしていたっけ)

二人で探偵ものの児童書を回し読みする微笑ましい光景が、正太郎の頭に浮かぶ。まあ、単に子供の思いつく一番の敬称が『先生』というだけかもしれないが。

青年が推測する横では、眞由美がパッと気配を華やかにしていた。

「どういたしまして、瑠実ちゃんっ」

声音まで弾ませている。

平静を装いながらも、子供から睨まれるのが、ずっと応えていたらしい。

瑠実は頬を赤らめて、

「っ……ちゃんはやめてっ。呼び捨ての方がマシよ……っ」

「じゃあ、私のことも眞由美で良いわ」

「う、うん、分かったっ……ええと、眞由美っ」

どうやら、歳の離れた二人は、対等の友情を築けたらしい。

正太郎は不覚にも──瑠実をちょっとだけ羨ましいと思ってしまった。

程なく、瑠実は帰っていった。

彼女が語ったところによれば、創の母は、井上家で住み込みのお手伝いをしていたそうだ。

その関係で、瑠実と創も数年間、姉弟同然に育った。シレは捨て犬だったのを、創が拾ってきたという。