待っているのが落ち着かなくなり、正太郎は催促してみた。
「それで……頼みというのは何でしょうか?」
「うん。君には、僕の姉の娘……つまり、姪の事務所で働いてもらいたい。とりあえずは来月の末までね」
「え?」
「姪は玉村眞由美といって、かつて将来を有望視される弁護士だったんだ。が、ある日一大決心をして、誰にも相談せず、職を変えてしまった。何もかも捨てて就いた仕事は、なんと探偵の見習いだ」
三流ドラマのあらすじみたいである。教授もそこで僅かに苦笑するが、話は澱みなく進めた。
「新しい職場で必要な技術を身に着けた後、姪は独立して個人事務所を開いた。親戚一同、どう遇するべきかで迷っているよ。不祥事を起こされても困るしね。そこで僕はどんな仕事ぶりか探ろうと考えついた。姪はちょうどバイトを募集中なんだ」
「……つまり俺……いえ、自分にスパイをしろということですか?」
「その通り。首尾よく潜り込むことが出来たら、定期的に状況を教えてほしい」
そんな役どころ、正太郎は御免だった。探偵の助手なんて、剣呑なトラブルに出くわすかもしれないし、時間も拘束される。第一、自分にスパイの真似事が出来るとは思えない。
「面接で弾かれたらどうするんですか?」
角の立たない逃げ道を探してみるが、法学部の狸は動じなかった。
「その時は別の方法を考えよう。どうだろうね。引き受けてくれるなら、姪からのバイト代と別に、僕も謝礼を払おう。結構な稼ぎになるよ? それに、だ」
英雄はニンマリ口の端を上げた。
「前回の小論文が、可と不可の間で揺れている君にとって、この仕事は社会勉強になると思うんだが?」
嘘だ。その小論文はきちんと下調べして書いたし、自己評価も低くなかった。
パワハラです、と抗議したいのを、正太郎はギリギリで飲み込む。学部長と言い争っても、勝てる望みはない。
「……分かりました。やってみます」
結局、それが青年の返事だった。
以上、回想終わり。
正太郎は動悸が速まるだけと自覚しつつも、改めて目の前の女性を見てみた。
玉村眞由美の実年齢は不明だ。英雄は教えてくれなかったし、正太郎も異性に疎いから、見当をつけにくい。
顔立ちは若々しく端整なのだが──。
(源元教授から聞いた経歴だと、まだ二十代ってのは、無理があるんじゃないか?)
まさか、三十代半ばなんてことは──。
脳裏をかすめる無礼な想像を、正太郎は慌てて打ち消した。
と、眞由美が立ち上がる。
「そうだわ。前にもらったお菓子があるの。それを食べながら、話しましょうか」
返事も待たず、パーテーションで区切られた給湯室の方へ歩いていく彼女。正太郎が目で追えば、引き締まったヒップラインが誘うように左右へ揺れていて──駄目だ。意識して顔を背けなければ、凝視してしまう。
(どうしたんだ、俺は! こんな軽薄男じゃなかったはずだろう!)
青年が悶々としているうちに、眞由美はクッキーの缶を持って戻ってきた。そしてさっきと同じ場所に腰を下ろして、蓋を開ける。
「遠慮なくどうぞ」
「い、いただきます……」
フレンドリーに勧められ、正太郎はぎこちなくクッキーを取り上げた。それを口に入れた瞬間、眞由美から質問が来る。
「で、源元教授の様子はどう? お元気かしら?」
──いきなりバレた!?
不意打ちに咽せかける。とはいえ、すぐ気付いた。履歴書を見せた以上、学部長である英雄の名前が出てもおかしくないはずだ。
これはカマ掛けだろう。
クッキーを塊のままで飲み下し、青年は白を切ることにした。
「そうですね? ええ、元気ですよ?」
しかし、眞由美もニコニコ笑いながら、追及を緩めない。
「そこまで動揺したら、ごまかしても手遅れじゃないかしら。君は源元教授に言われて、私を監視しに来たんでしょう?」
「……っ」
核心へズバリ切り込まれ、もはやいくら考えても、突破口は見つからなかった。
「は、はい……。姪の仕事を手伝いながら、定期的に状況を報告しろと言われました」
観念して頷く正太郎。ただし不安も大きい。
もしも眞由美が『余計なことをするな』と学部長に怒鳴り込めば、単位すら危うくなるのだ。
幸い──次のセリフまでに間は空いたものの、相手は表面上、にこやかなままだった。
「……。どんな目的だとしても、叔父様へ文句は言いにくいわね。あ、叔父様は──」
そこで彼女の目線は、スッと出入り口のドアへ移される。
「……君、どうしたの? 何かご用かしら?」
今までと違い、純粋に優しい口調だ。つられて正太郎もドアを見た。
すると、思いがけない展開。
小学校中学年ぐらいの少年が一人、事務所へ不安げに入ってきていたのだ。平たいバッグをランドセルのように背負い、出で立ちはごく普通のシャツに半ズボンという組み合わせ。
背丈は多分、平均ぐらいだろう。だが、全体的に線が細い。ビクビクした物腰のせいで、余計に弱々しく感じられるのかもしれない。
急に年上二人から見つめられ、少年は身を竦ませかける。それでも、どうにか踏みとどまり、高めの声を張り上げた。
「あのっ、た、玉村先生はいらっしゃいますかっ? お願いしたいことっ、あって、来ましたっ!」
「玉村は私よ?」
眞由美が軽く手を挙げて応じると、少年は即座に頭を下げる。