女探偵眞由美の誘惑事件簿

程なく、スピーカーから年配の女性の声が聞こえてきた。

「どちら様でしょう?」

「先ほどお電話いただいた、玉村探偵事務所の者です」

眞由美がよそ行き用の落ち着いた口調で答えると、「少々お待ちを」と告げられる。だが直後には、曲がりくねった道の向こうから、小さな影が飛び出してきた。

それは一人の少女だった。依頼人の創より若干年上らしく、豪邸にそぐわない、活発そうな半袖シャツと丈の短いパンツ姿。

インターホンを鳴らされる前から、正太郎達の姿を二階の窓越しに見つけて、矢のように飛び出してきたらしい。背中まである長い髪が、宙を舞うほどの駆け足である。

少女は門の前まで来るなり、急ブレーキ。鉄柵越しに、正太郎と眞由美を見上げてきた。

「あんた達が探偵事務所の人?」

つり目がちな顔立ちは、後何年かすれば、美人になるかもしれない。しかし現時点だと、生意気さが目立っていた。

というより、眉をひそめ、唇はへの字で、あからさまに客二人を怪しんでいる。

「……なんか胡散臭いわね」

はっきり口にまで出してきた。

そこで正太郎は気付く。ジロジロと無遠慮な目は、正太郎よりも眞由美へ強く向けられているのだ。──女性というのは、子供の内から、色っぽい同性に厳しめなのかもしれない。

「はじめまして、玉村探偵事務所の玉村眞由美です。こちらは助手の吉尾正太郎」

眞由美は刺々しい視線など微塵も気付いていない素振りで、にこやかに挨拶した。併せて名刺を少女へ差し出す。

「……ふん」

仏頂面でそれを受取った少女は、最低限の礼儀を果たすように「井上瑠実よ」と名乗った。

「じゃあ、あなたが電話をくれたのね?」

「そうよ」

「シレ君を預かってるって」

「ええ」

一々、返事が素っ気なく、門を開ける気配すらない。

眞由美の方も、少し困惑気味に首を傾げた。

「ええと……シレ君に会わせてくれる?」

「条件があるわ」

ビシリと強気に瑠実。

「あたしをシレの飼い主のところまで案内して。シレを守れるヤツかどうか、あたしが確かめるから」

しかし、眞由美は温和な口ぶりながら、きっぱり答える。

「……ごめんなさい。探偵は、依頼人の個人情報を明かしちゃいけないのよ」

「! だったら、あたしもシレに会わせてあげない!」

(……気難しい子だなぁ)

正太郎が胸中で嘆息すると、眞由美が場違いに軽く肩を叩いてきた。

「吉尾君、バトンタッチ。後は任せるわ」

「え、ええ!?」

「だって私が話しても、怒らせるだけだもの。大丈夫、大丈夫。責任は私が持つから」

「責任って、そんな簡単に……」

無責任な雇い主だ。

とはいえ、ここで押し問答を始める訳にはいかない。正太郎は身を屈めて、瑠実と目線の高さを合わせた。

「な……何よっ?」

初対面の男に顔を寄せられて、彼女も怯んだらしい。虚勢を張るように声を硬くされ、正太郎も急ぎすぎたと気付く。だが、座ったり立ったりしていたら、それこそ不審者だ。仕方なく、その姿勢のままで瑠実を見つめた。

「井上さんは、本気でシレを思いやってるんだな?」

「……そうよ! あたしだって、シレと仲良しなんだからっ。シレの将来が心配なの!」

「でも元の飼い主がどれだけ悲しんでるかも、俺達はこの目で見てるんだ。その子のもとへ、早くシレを連れて行ってあげたい。……俺達にシレを任せてくれないか?」

「嫌よ! 全然答えになってないじゃない!」

ますます苛立つ少女。どうやら言葉だけでは、どんなに頑張っても逆効果らしい。

正太郎は必死に頭を回転させた。創の身元を明かさず、シレが幸せになれると納得してもらうには──。

「なら、こういうのはどうだ? 井上さんが満足するまで、俺が定期的にシレの写真を撮って、見せに来る。それで元気がなくなってると分かったら、俺も井上さんに味方する」

所長から丸投げされたのだ。素人が思い付くやり方でいくしかない。

「そんな適当なこと言っても、あたしは騙されな──」

「約束するよ」

「っ……」

本気だから、声には力が籠る。

瑠実は吟味するように黙り込んだが、やがてふてくされたような態度のまま、門の掛け金を外した。

「その言葉、忘れないでよねっ」

言い放ち、先導するように元来た道を歩きだす。

正太郎も後へ続き──そこで眞由美が耳打ちしてきた。

「飼い主の了解も取らないで、思い切った約束をしちゃったわね」

詰る口調ではない。むしろ奮戦ぶりを気に入った様子だ。

だが、涼やかな声に不意打ちで鼓膜を撫でられると、純な青年は焦ってしまう。──ひ・み・つ、のお勉強もね──そんな誘惑まで脳内再生された。

「……ま、まずかったですか?」

「いいえ。謝るのは私の方よ。君がどんな風に説得するか、ぜひ知りたかったの」

要するに、交渉力を見定めるテストだったのだろうか。

だが、気を取り直してそれを問おうとしたところで、瑠実がボソリと言った。

「ほら、あそこ」

多分、シレが逃げ込むまで『空き家』だったのだろう。洋館の裏手、少女の指差す先に、青い屋根の古ぼけた犬小屋があった。

「シレは中よ」

教えられて、正太郎は慎重に犬小屋へ近づき、中を覗き込む。

「お……」

居た。張り紙で見た通りの茶色い柴犬だ。

しかし、嗅ぎ慣れない人間の匂いで警戒したか、シレは壁へぴったり身体を付けて、威嚇するように唸りだしていた。