と、前方から聞こえてきた足音に、瑞穂は顔を上げた。
ちょうど一人の少年が向こうから歩いてくるところだった。古風な詰襟の学生服は村の中学のものだ。
「あら。おはよう、太一くん」
「お、おはようございます……」
瑞穂の前までやって来た少年は目を泳がせながら挨拶を返した。おそらく年上の女性を相手に照れているのだろう。いかにも中学生らしい初々しさに、自然と微笑みを浮かべてしまう。
(お父さんとは大違いね)
瑞穂は心の中でつぶやいた。
そう、彼──郷田太一は、隣家に住む郷田の一人息子だった。といっても、下卑た父親とは似ても似つかぬ清廉な印象の少年だ。
太一は照れたようにモジモジとしながら、何かを言いたげな顔で上目遣いに瑞穂を見上げる。
「あ、あの、そういえば、もうすぐお祭りですね……」
「ええ、夫から聞いたわ」
「僕も父から聞きました。えっと、瑞穂さんが巫女に──」
太一が何かを言いかけたそのとき、
「おい、何やってるんだよ、太一」
同級生らしい数人の少年が元気よく歩いてきた。
「へえ、この人が今度の巫女さんかぁ」
「すげー美人」
「や、やだ、何言ってるのよ、あなたたち」
正面きって褒められ、照れてしまう。
先ほどの夫からの電話で瑞穂は村の祭りの巫女役を正式に頼まれたのだが、彼らは耳聡くそれを知っているようだ。
「今度のお祭りが楽しみだなぁ」
少年たちは一様に目をキラキラさせている。いかにも思春期の少年らしい、年上の女性への憧憬に満ちた視線だ。
そんな視線をいくつも浴びせられて気恥ずかしくなった。
「そ、そんなに見たら失礼だろ」
見るに見かねたのか、太一が彼らをたしなめる。その気遣いが嬉しくて、瑞穂はまた微笑んだ。
「それじゃあ、僕らは学校に行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」
そそくさと去っていく隣家の少年と同級生たちに、瑞穂はにっこりと手を振った。
「一人だけ抜け駆けすんなよ、太一」
「いやぁ、瑞穂さんって可愛いよな。太一が憧れるのも分かるよ」
「や、やめろよ、瑞穂さんに聞こえるだろ!」
「あはは、真っ赤じゃないか」
ワイワイと明るい声が遠ざかっていく。
昨日あんな出来事があって沈んでいた瑞穂だが、おかげで少しだけ気持ちが明るくなった気がする。
家の前の掃除を終えると、瑞穂は隣家に向かって歩き出した。
隣家の呼び鈴を二度鳴らしたが返答はなかった。
(彩香さん、留守なのかしら)
彼女に相談したいことがあったのだが、留守では仕方がない。落胆のため息をついた瑞穂は、出直そうと踵を返した。
そのとき、がさ、ごそ、と物音がして足を止める。
「何の音……?」
不審に思って振り返ると、どうやら音の出所は横手の勝手口のようだ。ほぼ同時に勝手口の扉が勢いよく開き、人影が飛び出した。
年齢は四十絡みで浅黒い肌をした純朴そうな男。一度挨拶をしたことがあり、確か近隣で農家を営んでいたはずだ。
「ど、どうも」
男は瑞穂を見て、なぜか気まずそうな表情を浮かべた。
「こんにちは」
「そ、それじゃあっ」
挨拶もそこそこに顔を背けて歩み去る男。
まるで慌てて逃げ出すように──。
(一体どうしたのかしら?)
「こんにちは、瑞穂さん」
不審な気持ちを募らせたところで、今度は玄関口から彩香が現れた。
「ごめんなさい、突然お邪魔して。少し話したいことがあって……」
「あら、いいのよ。いつでも歓迎だから」
にっこりと微笑む彩香に瑞穂も釣られて笑う。そこで、あることに気づいてハッと顔をこわばらせた。
「……?」
視界に入った彩香の首筋に赤いものが見えたのだ。
(これってもしかして──)
まさか、と思いつつ目を凝らすと、やはりキスマークだった。当然、それをつけた相手は彩香の夫だろう。
おそらくは昨日の夜、彼女たち夫婦で激しく交わった証を見たような気がして、瑞穂は我知らず頬を熱くした。
(嫌だ、私ったら。何を考えているのかしら。よその家の夫婦生活なのに……)
本音を言えば、夫との間で愛の行為がご無沙汰になっている瑞穂にとって、羨ましさを覚えるのも事実だった。
定期的な夜の営みは夫に愛されている何よりの証であり、人妻にとっては最高の充足感を与えてくれるものだ。
それなのに瑞穂は、夫を裏切って他の男の逸物に口奉仕をしてしまった。
(駄目よ、考えちゃ駄目)
湧き上がる暗い記憶を慌てて頭の片隅に追いやる。
このモヤモヤをどうにかしたくて彩香に相談に来たのだ。
「どうしたの、瑞穂さん? あ、そんなところに立ってないで入って入って」
彩香が明るい声で促してくれる。
瑞穂は軽く会釈をして彼女の家に入った。
応接間に通されると、壁に飾ってある大きな写真が目に付いた。
勇壮な神輿とそれを囲む褌姿の男たち、そして中央には可憐な巫女衣装の女性。
「ああ、それ? 去年の豊稲祭の写真よ」
彩香が説明する。
長い棒状で先端部が赤黒く塗られたその神輿はどこか男根を連想させ、瑞穂は思わず頬を赤らめた。
「で、話したいことって何かしら?」
「実は……」
言いかけたところで瑞穂はハッと口を閉ざした。言おうとした言葉が喉の奥に貼りついたように出てこない。
郷田に強制された一連の行為は、不可抗力だったとはいえ不倫である。簡単に打ち明けられるような類の話ではない。