新妻【贖罪】
私は牝になる
小説:北都凛
挿絵:三顕人
リアルドリーム文庫
登場人物
藍沢 美帆
モデルと見まがう抜群のプロポーションをした二十六歳の若妻。お嬢様育ちのお淑やかな性格ながら、芯は強く、真っ直ぐな正義感を持っている。
藍沢 晃司
美帆の夫で、商社に勤める二十八歳。長身で甘いマスクの爽やかな外見。
酒井 八郎
肥満体で頭頂部が薄い四十六歳。不動産屋を経営しており、美帆たちの住むマンションを管理している。
酒井 綾乃
八郎の妻。濃いメイクで、香水の匂いを漂わす妖艶な雰囲気の三十四歳。
第一章 穢された口唇
九月も終わりに近づき、暑さがやわらいで過ごしやすい季節になってきた。
「晃司さん、行ってらっしゃい」
白い半袖ワンピースに身を包んだ藍沢美帆は、マンションの玄関先で出勤する夫に柔らかく微笑みかけた。
小さく手を振ると、ワンピースの胸もとが柔らかそうにフルフルと揺れる。ウエストが見事なまでにくびれているので、たわわに実ったバストの大きさと、むっちりとしたヒップの豊かさがより強調されていた。
「それじゃ、行ってくるよ」
グレーのスーツで決めた晃司は男らしくて、眩しいくらいに輝いている。
毎朝の習慣で少し曲がっているネクタイに手を伸ばそうとしたとき、ふいに彼が腰を屈めて唇をチュッと重ねてきた。
「あ……」
思わず頬を染めてうつむくが、愛する夫にキスされて胸の奥がほんのりと温かくなっていく。それでも、ご近所様の目を気にして小声で抗議した。
「困ります……誰かに見られたら……」
「ごめんごめん。美帆があんまり可愛いから、つい……ね」
「もう、晃司さんたら」
わざと頬を膨らませてみせると、夫の顔にやさしい笑みがひろがった。
結婚式を挙げてから半年、今が一番楽しいときなのかもしれない。美帆は日々幸せを感じながら、甘い新婚生活を満喫していた。
夫に釣られて微笑むと、二十六歳とは思えない愛らしい表情になる。
いかにもお嬢様育ちといった感じの清楚な顔立ちと、背中のなかほどまである黒髪のストレートロング。物静かで大人しく、誰に対しても分け隔てなく接する柔和な性格が彼女の魅力だ。
ふたつ年上の晃司とは、学生だった六年前に友人の紹介で知り合った。爽やかなスポーツマンといった印象で、少年っぽい笑顔と誠実な人柄に好感が持てた。
交際をスタートさせてから半年後、彼のアパートでヴァージンを捧げた。お互い口にこそ出さなかったが、あのとき将来を誓い合ったのだと思う。
やがて晃司は明蹊大学を卒業し、一流総合商社である全日商事に入社した。美帆は聖華女子大を卒業後、父親が経営するフランス料理チェーンの本店で事務職を手伝っていた。その後も順調に愛を育み、今年に入ってプロポーズされた。
──どんなことがあっても必ず君を幸せにする。僕と結婚してくれないか。
真剣な眼差しで言われたときは、嬉しくて大粒の涙が溢れた。それからはあっという間で、お互いの両親に挨拶を済ませると、すぐに籍を入れて式を挙げた。
住居に関しては父親が援助を申し出てくれたが、二人の愛の巣はいつか自分たちの力で手に入れようと決めていた。だから不動産屋を何軒かまわって、この3LDKの賃貸マンション『リバースシャトー』の最上階である六階に入居した。
玄関先で見つめ合う二人は、誰もが羨むような美男美女のカップルだ。
新婚生活に不満はなにひとつない。ただ、夫がずいぶん疲れた様子なのが気がかりだった。この一週間残業続きで、今日も土曜日なのに休日出勤だという。
若くして係長候補だから忙しいのは仕方ないが、無理をしてまで昇進する必要はないと思う。それでも、人一倍真面目な夫が一生懸命がんばっているのだから、応援するのは妻の務めなのかもしれない。
左手薬指のリングをそっと撫でると、偽りのない言葉が自然と溢れだす。
「晃司さんが健康でいてくれれば、私はそれだけで満足ですから」
はにかみながらも、心をこめてまっすぐに見つめていく。すると晃司は安心させるように微笑み、力強く頷いてくれた。
「うん。それじゃ、今度こそ行ってくるよ」
「車の運転、気をつけてくださいね。行ってらっしゃい」
夫を少しでも元気づけようと、美帆は笑顔で手を振った。
そんな新婚夫婦の朝のやりとりを、廊下の陰から好色そうな目でうかがっている男がいた。しかし、夫のことを気にかける新妻が気づくはずもなかった。
朝食の後片づけをしていると、インターフォンのチャイムが鳴り響いた。
(こんなに朝早く、誰かしら?)
リビングの壁にある液晶モニターを見ると、このマンションを紹介してくれた不動産屋の中年男性──酒井八郎が映っていた。
四十六歳の働き盛りだが、頭頂部が薄いせいか老けて見える。怪我をしているらしく、右腕を三角巾で吊っていた。肥満体に張りついた黄色いポロシャツの腋には、不潔そうな汗染みがべったりとひろがっている。
モニター越しにも汗が臭ってきそうで、思わず躊躇しつつも玄関に向かった。
「奥さん、お久しぶりです」
ドアを開けた途端、くぐもった低い声が鼓膜を不快に振動させる。