新妻【贖罪】 私は牝になる

個室のドアをノックすると、なかから「はい」と小さな声が返ってきた。

「失礼します……」

緊張しながら病室に入り、ベッドに横たわっている女性と視線を交わす。と、その瞬間、考えてきた挨拶が消し飛んでしまった。

酒井綾乃は同性が見てもハッとするほどの妖艶な雰囲気を漂わせていた。下品な酒井からはとても想像できない、少々派手な容姿の美熟女だ。

入院中なので化粧はしていないが、それでも目鼻立ちがくっきりしている。綺麗にブラッシングされたロングヘアはウェーブがかかっており、窓から射しこむ日の光を受けてアッシュブラウンに輝いていた。

「ええと……あなたは?」

綾乃が小首をかしげて、しっとりと落ち着いた声音で訊ねてくる。身のこなしひとつ取っても、若妻にはない大人の色気が漂っていた。

「あ、あの……私……藍沢晃司の妻の美帆と申します」

掠れた声を絞りだして自己紹介する。すると夫人は少し考えるような顔をしてから、納得したように頷いた。

「ああ、あのときの事故の……」

綾乃は上半身を起こしかけたが、苦痛に顔を歪めて再び枕に頭を沈めてしまう。

「あっ、ご無理をなさらないでください」

慌ててベッドに歩み寄り、懇願するように語りかける。

容姿の艶やかさにばかり目を奪われていたけれど、夫人の首には白いコルセットが巻かれていた。ピンク色の入院着を纏ってつらそうに目を閉じる姿は、容態の悪さを物語っているようだ。

「わざわざ来てくださったのに、横になったままでごめんなさい」

「い、いえ、そんな……私のほうこそ、突然訪ねてきたりして……この度は、大変なお怪我を負わせてしまい、本当に申し訳ございませんでした」

夫の不祥事は、妻である自分の責任でもある。美帆は心から謝罪の言葉を述べると、深々と腰を折って頭を垂れた。

「あら、そんなに硬くならなくても大丈夫よ。軽い鞭打ちと、念のための検査入院だから。さ、顔をあげて椅子に座ってくださいな」

夫人はときおり苦しげに眉を顰めながらも、やさしく語りかけてくれる。こちらに非があるのに、まったく責めようとはしなかった。いつまでも立って見おろしているのも失礼だと思ったので、勧められるまま丸椅子に腰を落ち着けた。

「美帆さんって、素敵なお名前ね。可愛らしくて、なんだか羨ましいわ」

「あ……ありがとうございます……」

「そうそう。旦那さん、毎日お見舞いに来てくれるけど、大変じゃないかしら?」

酒井から聞いた話と同じだった。

晃司は仕事を終えると、病院に寄ってから家に帰ってくる。そして美帆には残業で遅くなったと説明していた。すべては妻に心配をかけないため……。

「あの……じつは事故のこと、夫の口から聞いてないんです」

幸せな家庭を守ろうとしている夫の気持ちを、自分の勝手な行動で無駄にしたくない。美帆はもう一度頭をさげると、きょとんとしている綾乃夫人に懇願した。

「私がここに来たこと、夫には黙っていてもらえないでしょうか」

「きっと美帆さんを不安にさせたくないのね。愛されてる証拠じゃない」

綾乃の口調はあくまでも穏やかで、胸の奥にスッと入りこんでくる。

「旦那さんと二人なら、どんな困難でも乗り越えていけるわよ。がんばってね」

「はい……ありがとうございます」

怪我をしている夫人に、逆に慰められてしまう。負い目があるせいなのか、なぜか彼女には心を許せそうな雰囲気があった。

「こちらが悪いのに、勝手なことばかり言って申し訳ございません」

「口は堅いほうだから安心して。美帆さんみたいに可愛らしい奥さんだったら、旦那さんが守りたくなるのもわかるわ。私なんて、もう三十四のオバサンだから……」

「そ、そんなことありません。奥様はすごくお綺麗です」

遠慮がちに小声で反論する。これほど美しい女性が、なぜ酒井のように下劣な男と結婚したのか腑に落ちなかった。

「美帆さんは本当にやさしいのね。あら、お花を買ってきてくれたの?」

夫人は柔らかく微笑むと、膝の上に乗っている花に視線を向けた。

「あ……は、はい、忘れてました。すみません」

「フフッ。謝ってばかりね」

美帆は真っ赤になりながら、花を生けるために席を立った。

ナースステーションで聞くと、洗面所の流し台の下に花瓶があるというので、それを使わせてもらうことにした。

(奥様はあんなにいい人なのに……どうして……)

酒井の顔を思いだすだけで、屈辱感がよみがえって背筋が寒くなる。慌てて頭を振っておぞましい記憶を追い払うと、花瓶を持って病室に戻った。

すると綾乃は目を閉じて、静かに寝息をたてていた。怪我をしているところに長居したので、話し疲れたのかもしれない。

夫人は気さくに会話に応じてくれたうえに、お見舞いに来たことを内緒にすると約束してくれた。そんな彼女に夫が怪我を負わせたのかと思うと、ただただ申し訳ない気持ちになってしまう。

こんな心やさしい女性に、酒井の悪行を告げることなどできるはずがない。美帆はそっと花瓶を置くと、足音を忍ばせて病室をあとにした。

昼前にマンションに戻ったが、ひと息つく間もなく再び酒井がやってきた。

「九月とはいえ、まだまだ暑いですなぁ」

例によってソファーにどっかりと腰かけて、額から噴き出る汗をしきりに手のひらで拭っている。見るからに暑苦しい肥満体に纏っているのは、今日も汗まみれの黄色いポロシャツだ。