「どうも、こんばんは。確か、美帆さんでしたね?」
白々しく挨拶する酒井の口端がいやらしく吊りあがり、美帆は背筋がぞくりと寒くなるのを感じた。
「美帆さん、初めまして。酒井の妻の綾乃と申します」
綾乃夫人が小さく会釈をしてくる。しかし、病院での約束を覚えているらしく、初対面のふりをしてくれた。淡い藤色のワンピースにクリーム色のカーディガンというシックな装いだが、顔立ちが艶やかなので存在感は際立っていた。
「ごめんよ。急にお客さんを連れてきたりして」
晃司がすまなそうに頭を掻く。妻が黙りこんでしまったので、連絡なしでの来客を怒っていると勘違いしたのだろう。だが、美帆は憤りを感じているわけではなく、中年男のふてぶてしい態度に怯えているだけだった。
「ど……どういうこと……ですか?」
思わず涙ぐみそうになり、訊ねる声が小さく震えてしまう。
その声が憤怒を滲ませているように聞こえたのかもしれない。晃司は慌てた様子で、言いわけがましく口を開いた。
「奥様が入院していて、今日退院したんだってさ。それなら、お祝いをしましょうかって、僕が誘ったんだけど……まずかったかな?」
夫の言葉を聞いて、美帆は複雑な思いに駆られていた。生真面目な彼のことだから、酒井夫婦にお詫びをしたい気持ちがあるのだろう。偶然会ったようなことを言っているが、本当は退院すると聞いて迎えに行ったのかもしれない。
(でも、あなた……酒井さんは、私のことを……)
とてもではないが打ち明けられない。目の前にいる中年男にレイプされて、しかも何度もオルガスムスを味わわされてしまったなんて……。
心から愛しているからこそ、一生秘密にしなければならないこともある。夫と同じ道を歩み、隣で一緒に歳を重ねていきたいから。
「美帆、急な話で悪いんだけど……晩ご飯、二人分増やせないかな?」
申し訳なさそうな晃司の肩越しに、酒井が脅すような視線を送ってきた。
夫がいるというのに、またしても二人の愛の巣にあがりこむつもりらしい。追い返そうものなら、報復として夫にすべてを打ち明けるつもりなのだろう。
「ど……どうぞ……おあがりください……」
美帆は頬を引きつらせながら、招かれざる客に声をかけていた。
「それでは、お言葉に甘えてお邪魔しますよ」
薄笑いを浮かべてあがりこむ中年男とは対照的に、夫人はためらいがちにパンプスを脱ぐ。そして、すれ違い様に小声で囁きかけてきた。
「突然お邪魔してごめんなさいね。すぐに帰りますから」
綾乃が会釈をしたとき、首の後ろに貼ってある湿布がチラリと見えた。
鞭打ちの痛みが、まだ引かないのかもしれない。夫が事故を起こしたことは紛れもない事実だ。酒井には問題があるけれど、罪は償っていかなければならない。これは夫婦で乗り越えていくべき試練だった。
「奥様、こちらで休んでいてください」
美帆はまだ少しつらそうな綾乃にソファーを勧めると、酒井のことは無視してキッチンに入った。すると晃司がカウンター越しに声をかけてくる。
「勝手なことしてごめんよ。仕事を増やしてしまったね」
夫が気遣ってくれるだけで、いくらか気持ちが楽になった。
よくよく考えてみれば、酒井がどんなに下劣な男でも、晃司や綾乃の前では手を出せない。一緒に食卓を囲むのは嫌だが、少しの間だけ我慢すれば済むことだ。
「気にしないでください。夫のお客様をお持てなしするのは妻の役目です」
気丈に微笑んでみせると、夕食の支度に取りかかる。と、そのとき、ソファーに腰をおろしていた綾乃が立ちあがった。
「美帆さん。お手伝いしますわ」
手のひらで首筋を擦りつつ、おぼつかない足取りで歩み寄ろうとする。すると、それを見た酒井がすぐに夫人を追ってきた。
「おまえは退院したばかりなんだから大人しくしていなさい」
「でも、待ってるだけでは美帆さんに悪いから……」
突然押しかけてきたことを気にしているのだろう。同じ主婦だからこそ、その大変さが実感できるに違いない。
「いいから座ってなさい。倒れたりしたら、却ってご迷惑をおかけしてしまうぞ」
酒井は無理やり夫人をソファーに連れ戻すと、太鼓腹を揺すりながら対面カウンターに近づいてきた。
「奥さん、私がお手伝いしますよ」
さらりと声をかけてくるが、その目の奥には妖しい光が宿っている。この男のことだから、きっとなにかを企んでいるに違いない。
「い、いえ……結構です……」
美帆は慌てて断ったが、酒井は一歩も引く気配を見せなかった。
「まあまあ、ご遠慮なさらずに。私はこう見えても料理が趣味でしてね」
図々しくキッチンに入ってくると、カウンターの向こう側に立っている晃司にも愛想よく声をかける。
「今は男も料理くらいできないといけません。家内の具合が悪いときはとくにね」
事故のことを皮肉られた晃司は、恐縮しきった様子で深々と頭をさげた。直後に妻の前だということに気づき、慌てて平静を取り繕おうとする。
「な、なるほど、まったくです。男の料理ですか……いいですね」
事故の罪悪感を刺激されたことで、晃司はあっさり酒井の術中に嵌まってしまった。
「あ……あなた……」
すぐ隣にレイプ魔が迫ってきて、美帆は思わず夫に助けを求めようとする。するとタイミングが悪いことに、ソファーに腰をおろした綾乃が声をかけてきた。