酒井は口もとにいやらしい笑みを湛えて、ワンピースの胸もとや腰のあたりを無遠慮に見つめてきた。裾から覗く膝小僧にも粘りつくような視線を感じ、自宅とはいえストッキングを穿いていなかったことを後悔してしまう。
「お、おはようございます……」
生理的嫌悪感に襲われて、挨拶しながらも二の腕に鳥肌がひろがっていく。
美帆は華奢な肩を竦めて無意識のうちに胸もとを手で覆い隠し、ワンピースの前ボタンをギュッと握り締めた。
(やっぱり、私……酒井さんのこと苦手かも……)
じつは入居の際から、酒井に対してあまりいい印象を持っていなかった。夫の目を盗むように、卑猥な目で身体を舐めまわされて嫌な思いをしたのだ。
天から与えられた類い希なる美貌と抜群のプロポーションは、どうしても異性の目を惹きつけてしまう。乳房はミルクをたっぷり湛えたように張りつめ、折れそうなほどに細い腰まわりから豊満な臀部にかけては悩ましい曲線を描いている。
それでも、あからさまに欲情した視線を向けられたことなど一度もなかった。
些細なことなので夫には話していない。リバースシャトーという物件が気に入っていたし、なにより二人の新生活に水を差したくなかったから……。
「あの……どのようなご用件でしょうか?」
「おっと、これは失礼。ご主人にお話があるのですが……うっ、痛んできたな」
酒井は思いだしたかのように、三角巾で吊っている右腕を擦りはじめた。ギプスはしていないが、包帯を何重にも巻きつけてあるようだ。
「あいにくですが主人は留守にしておりまして……。あの、お怪我をなさっているようですけど、どうされたのですか?」
世間話をする気はないが、なんとなく流せる雰囲気ではなかった。すると逆に質問を返されて思わず小首をかしげてしまう。
「旦那さんから聞いてませんか? そうか、奥さんには話してないんですね……」
意味深な物言いをされて、だんだん不安になってくる。半年ぶりに顔を合わせた不動産屋が怪我をしていることに、夫がなにか関係しているのだろうか。
「どういうことでしょうか。うちの主人がどうかしたのですか?」
今度はお義理ではなく本心から訊ねていた。すると酒井はどこかもったいぶるようにしながらも、順を追って説明をはじめた。
「旦那さんを差し置いて、私からお話しするのもなんですが……。じつはですね、一週間ほど前に旦那さんが運転する車に追突されまして」
「え……晃司さんが追突?」
一瞬にして顔から血の気が引いていく。事故を起こした話など、夫からは一切聞いていない。寝耳に水とはまさにこのことだった。
「不幸中の幸いといいますか、私は軽い打ち身だけで済みました。ただ助手席に乗っていた妻が首を痛めまして……いわゆる鞭打ち、というやつですね」
「お、奥様まで……お怪我を……」
美帆は困惑しながらも、慌てて記憶の糸を辿った。
確か先週──。まめな夫にしては珍しく、会社から連絡を入れないで遅く帰宅したことがあった。そういえば、自家用車のバンパーには小さな傷がついている。それに最近の夫は疲れ気味で、どこか落ち着かない様子だった。
(晃司さん……本当なのですか?)
美帆は青ざめた顔で、三角巾で吊られた酒井の右腕を見つめた。
「私は事故の翌日から仕事を休んで自宅療養をしておりまして、妻の綾乃は首の治療と精密検査で入院してるんです」
中年男の声が、頭のなかで反響する。
事故、妻、綾乃、入院……。思ってもみなかった事態に遭遇して、パニックを起こしかけていた。どうしたらいいのかわからず、呆然と立ちつくしてしまう。
「でも、旦那さんは本当にいいお方ですね。仕事が終わると毎日必ず、妻が入院している市民病院にお見舞いに来てくれるんですよ」
この一週間、晃司は残業だと言って普段よりも帰宅が遅くなっていた。
すべての状況を照らし合わせると疑う余地はない。おそらく先週の遅く帰宅した日、夫は会社帰りに事故を起こしたのだろう。
「あの……なんとお詫びを申しあげたらいいのか……」
「いえいえ、それよりも旦那さんに示談にしてくれと頼まれまして、警察には連絡してませんのでご安心ください。なんでも会社に知られると困るとかで」
同情するような酒井の言葉でハッとする。
きっと夫のことだから一人で悩んでいたのだろう。今は昇進がかかっている大事な時期だ。人身事故を起こしたとなれば、出世競争に敗れてしまうかもしれない。
(私がもっと早く気づいてあげれば……)
後悔の念が湧きあがり、思わず涙目になってしまう。
仕事が忙しいという夫の言葉を鵜呑みにしていた。少しでも元気づけようと笑顔を心がけてきたけれど、内心の苦悩にはまったく気づけなかった。
「示談の件でご相談したかったのですが、旦那さんはお仕事でしたか……」
「はい……わざわざお越しいただいたのに、本当に申しわけございません」
美帆は深く腰を折り、震える声で必死に謝罪した。
本来なら加害者である晃司が訪ねるべきなのに、酒井は決してそのことを責めたりはしない。ただ、包帯が巻かれた右腕を何度もつらそうに擦っていた。
「いきなり訪ねてきた私が悪いんです。会社のほうに電話をしてみようかな。えっと、確か旦那さんは全日商事にお勤めでしたよね?」