新妻【贖罪】 私は牝になる

ふいに声をかけられて、フォークを持った手がとまっていることに気がついた。目の前のお皿に乗った目玉焼きは、いつの間にかすっかり冷めている。

「あ……ご、ごめんなさい、ちょっとボーッとしてて……」

美帆は慌てて答えると、食卓を挟んで座っている夫の顔をチラリと見やった。すると視線が合った瞬間に、またしても涙が溢れそうになってしまう。

「どこか具合が悪いんじゃないのか? 横になっていたほうがいいよ」

やさしく声をかけられると、なおさら罪悪感が煽られる。

涙腺がゆるみそうになるのを懸命にこらえ、下唇を噛み締めて首を左右に小さく振った。素っ気なくて悪いと思うが、今は夫の心配そうな視線が逆につらすぎた。これほど会話が弾まない朝食は、結婚して以来初めてのことだった。

(晃司さん、私は……もう……)

昨日からずっと悩んでいたけれど、やはり打ち明けることはできなかった。

初めてのオルガスムスを、夫以外の男に味わわされた事実が後ろめたい。挿入こそされなかったが、愛する人を裏切ってしまったことに変わりはなかった。

いっそのこと無理やり犯されていたら、洗いざらい告白できたのかもしれない。暗く重い自責の念に駆られて、「汚れてしまった私と別れてください」と涙ながらに懇願できたのかもしれない。

時間が経つほどに話すきっかけが失われてしまうが、結婚生活が破綻することを恐れて、どうしても切りだすことができなかった。

(許してください……あなたを愛してるんです……)

結果として夫を騙していることになり、貞淑な新妻はますます苦悩を深める。

美帆は無意識のうちに左手薬指のリングをそっとなぞってた。コーヒーカップを包みこんでいる夫の指にも、同じリングが嵌められている。

──僕は一生、君のことを守っていくよ。

彼が囁いた誓いの言葉は、もちろん本心だろう。でも、妻が他人に嬲られて嬌態を晒したと知っても、これまでと変わらぬ無上の愛を注いでくれるだろうか。

美帆は横目でリビングを見やった。ベージュのソファーの座面に、うっすらと染みが残っている。口内に放出された精液を吐きだした際にできたものだ。

陵辱された直後は気丈に酒井をにらみつけたが、夫の前ではか弱い新妻に戻ってしまう。昨夜遅くに帰宅した晃司は、いつにも増して疲れていた。ほとんど会話もないまま食事をして、風呂に入るとすぐに寝てしまった。

少し寂しかったけれど、救われた気がしたのも事実だ。夫の顔を見ていると、昼間のことを思いだして涙が溢れそうになるから。

(でも……晃司さんは一人で悩んでたのね……)

夫の表情が冴えないのは、事故のことを隠している罪悪感の表れだ。妻に余計な心配をかけないよう、苦悩の末に自分一人で解決する道を選んだに違いない。

「もうこんな時間か。そろそろ出かけるよ」

腕時計に視線を落とした晃司が、おもむろに腰をあげた。

「あっ、ごめんなさい……私、また……」

美帆はハッと我に返り、慌てて立ちあがった。自分を厳しく戒めながらも懸命に平静を装う。夫の前でぼんやりするなんて、妻としてあるまじき態度だ。

「美帆、ごめんな。この埋め合わせはきっとするから」

玄関に向かって歩く晃司が、唐突にポツリとつぶやいた。妻の様子がおかしいのは、日曜日なのに接待ゴルフに行くせいだと勘違いしているのかもしれない。

「晃司さん、そんな……謝るなんて、おかしいですわ」

思わず言葉につまりそうになり、できるだけ自然に微笑んだ。仕事上の付き合いなのは承知している。謝らなければならないのは、自分のほうなのに……。

「あなた……車の運転、気をつけてくださいね」

いつものように声をかけた瞬間、夫の顔が少しこわばったような気がした。

車のバンパーについている傷には気づかないふりをしている。夫が必死に解決しようとしているのだから、そのことには一切触れないと心に決めていた。

「それじゃ、行ってくるよ」

ゴルフバックを肩に掛けた晃司は、玄関ドアを開ける前に振り返った。そして美帆の額にそっと口づけると、にっこり微笑みかけてくる。

「これなら、ご近所様に見られることもないだろ?」

「晃司さんたら……。行ってらっしゃい」

美帆もできる限りの笑みを浮かべて見送った。

愛する人の前では笑顔を心がけようと思う。二人とも幸せな家庭を守ろうと、精いっぱい努力しているのだから。

晃司が出かけると、すぐに純白の半袖シャツと膝丈の黒いフレアスカートに着替えた。そして私鉄と路線バスを乗り継ぎ、四十分後には市民病院の前に立っていた。

酒井の話が本当なら、夫人はここに入院しているはずだ。

道すがら購入したお見舞いの花を、両手でそっと抱えている。自分でも驚くような行動力だが、とにかく真実を確かめなければならない。

ナースステーションで訊ねると、酒井綾乃は個室に入院しているという。

どうやら怪我をしたのは本当らしい。夫が事故を起こしたのだから、とにかく面会して謝罪するつもりだ。でも、それだけで終わらせるつもりはなかった。

(晃司さんとの幸せを守るためだもの……)

場合によっては、すべてを夫人に打ち明ける覚悟だ。

病室を探しながら歩いていると、男性患者たちが好色そうな視線を向けてくる。退屈な入院生活を送っている病棟に若い人妻が現れたのだから、注目されるのは当然だろう。でも、今の美帆にそんなことを気にしている余裕はない。