母娘喰い 奪われた媚肉

浩志が明るく言えば、二階の沙緒里も「賛成っ!」と元気よく手をあげる。朝から引っ越し作業をしていたので、みんな空腹だった。

「お弁当を買ってくるから、浩志さんは休んでて」

さっそく出かけようと振り返る。すると、家の門の前に立っていた大柄な中年男と視線が重なった。

頭が禿げあがっており、両サイドに少しだけ髪が残っている。腹部はだらしなくぽっこりと膨らみ、黒いポロシャツはよれよれでグレーのスラックスは皺だらけだ。とにかく全身から不潔感が漂っていた。

(この人、確か……)

中年男が唇の端を吊りあげてにやりと笑った瞬間、古い記憶がよみがえった。

「どうも、こんちは」

卑屈そうに会釈して、十六年前と変わらぬくぐもった声で挨拶してくる。すべてがあの頃のままだった。

男の名前はうしじまりんろう。フューチャー事務機の営業社員だ。ちょうどひとまわり年上だったと記憶しているので、今は四十八歳か。由香里が働いていたときから有名な駄目社員で、よく上司から叱られていた。

だが、由香里がこの男のことを覚えている理由は他にある。何度も食事に誘われて嫌な思いをした。当時、浩志と社内恋愛していることは秘密だった。だが、あまりにもしつこかったので恋人がいると伝えた。それでも牛島は諦めなかった。

会社で顔を合わせれば、必ず舐めるような視線を向けられた。毎晩電話がかかってきて、長話に延々と付き合わされる。部署は違っても、会社の先輩なので無下にはできなかった。そんなとき、牛島は決まって妙に息遣いが荒かった。

気色悪い声を思いだすと虫酸が走る。牛島が電話の向こうでなにをしていたのかはわからないが、記憶を辿るだけで気分が滅入りそうだった。

「あっ、牛島さんじゃないですか」

家に入ろうとしていた浩志が、牛島に気づいて戻ってくる。なぜかその声には親しみがこもっており、笑みすら浮かべていた。

夫は十六年前のことを知らない。もしあのとき相談していたら、浩志と牛島の関係がぎくしゃくするのは間違いなかった。彼に迷惑をかけたくなかったので、あえてなにも話さなかったのだ。

「ああ、課長、どうもどうも」

牛島は愛想笑いを浮かべると、勝手に門を開けて敷地内に入ってきた。

夫と並ぶと、牛島の体がいかに大きいかがよくわかる。浩志は中肉中背の平均的な体型だが、身長も横幅も牛島がふたまわりほど大きかった。

「由香里、覚えてるかい? 営業部の牛島さんだよ」

夫は機嫌よさそうにしているが、由香里の頬は引き攣っていた。

「ひどいなぁ、俺のこと忘れちゃったんですか?」

牛島は目の前まで来ると、へらへらしながら笑いかけてくる。その巨体からは汗のえたような匂いが漂っていた。

「まあまあ、牛島さん。許してあげてくださいよ。由香里は退職して、もう十六年も経ってるんですから」

「もうそんなになりますか。じゃあ、しょうがないですねぇ」

牛島の妙にへりくだった口調が不愉快だ。ひとまわりも年上なのに、恥ずかしいと思わないのだろうか。

「この春から、牛島さんは僕のところに異動になったんだよ」

浩志が笑顔で説明する。その話は初耳だった。

営業部は第一から第五まで分かれており、浩志は第五課の課長をしている。どうやら牛島は他の課から異動してきたらしい。つまり、後輩の浩志が直属の上司になったということだ。

浩志にしても、先輩が部下になったというのはやりづらいに違いない。だから、先ほどから親しげな笑みを浮かべているのだろう。

「そ、そうなの……。牛島さん、今日はなぜこちらに?」

早く帰ってもらいたくて牛島に話しかける。本来の用事を思いだせば、立ち去ってくれるだろうと思ったのだ。

「決まってるじゃないですか。引っ越しの手伝いに来たんですよ」

牛島は満面にいやらしい笑みを浮かべると、無遠慮な視線を胸もとに向けてきた。

由香里は思わず後ずさりするが、浩志はまったく気づいていないようだ。それどころか、牛島の来訪を喜んでいるようにすら見えた。

「それはわざわざありがとうございます。牛島さんに手伝っていただければ、すぐに片づけも終わりますよ」

「まかせてください。ばっちり働くんで」

昔から口だけは調子のいい男だ。牛島は太鼓腹を揺すりながら、新築の一戸建てを眺めまわした。

「素晴らしいお家ですねぇ。まったく羨ましい。幸せを絵に描いたようですなぁ」

その言葉の裏に、なにか引っかかるものを感じる。由香里が一度も誘いに乗らず、浩志と結婚退職したことを根に持っているのかもしれない。

牛島を家にあげたくなかったが、夫には余計なことを言えなかった。妻として夫の仕事の邪魔をするべきではない。ほんの少し我慢すれば済むことだった。

「おや? お嬢さんですね」

牛島が二階の窓を見あげて右手を振る。窓から顔を出していた沙緒里は、愛くるしい顔に人懐っこそうな笑みを浮かべて手を振り返した。

「娘の沙緒里です」

浩志が紹介すると、中年男の唇が微かに吊りあがった。

「可愛いじゃないですか。お母さん似の美人になるでしょうねぇ」

ただのお世辞だと取れなくはない。しかし、なにか意味深な感じがして、由香里は思わず眉根を寄せていた。牛島は本当に引っ越しを手伝うために来たのだろうか。なにか嫌な予感がするが、ここは夫に従うしかなかった。