由香里は平静を装い、朝食をテーブルに運んだ。そして、自分も浩志の正面の席に腰をおろした。
「そういえばさ、牛島さん、最近がんばってるんだよ」
トーストを囓りながら話しはじめた夫の言葉に、由香里は思わず表情を凍りつかせる。あんな男の話など聞きたくなかった。
「昨日なんか朝から外回りの営業に出かけて、戻ってきたのは七時近かったんだ。かなり歩いたんじゃないかな。クタクタになってたよ」
「そう……なの」
気力を振り絞って短く返事をした。
昨日、牛島は昼前にやってきて、六時過ぎまで母娘を嬲り抜いたのだ。その後、何食わぬ顔で会社に戻り、夫に外回りの報告をしたのだろう。
(なんて人なの……)
そのふてぶてしさが不気味だった。
できることなら、あの男の本性をぶちまけてしまいたい。だが、夫が真実を知ったとき、きっと家庭は崩壊してしまうだろう。
「そういえば牛島さん、帰り際に〝課長とご家族のためにがんばります〟なんて殊勝なこと言ってたな」
「え……?」
「おかしいだろう? 僕はわかるけど、家族って由香里と沙緒里のことだよね。意味がわかんないよな」
浩志は笑い話をしているつもりだろうが、由香里の顔はどうしてもこわばってしまう。牛島が〝ご家族のため〟と言ったのなら、それは〝これからも由香里と沙緒里をレイプしてやるぞ〟という意味ではないだろうか。
(きっと楽しんでるんだわ。浩志さんのことを小馬鹿にして……)
脂肪だらけの顔をニヤけさせている様が容易に想像できる。悔しくてならないが、もうあの男に逆らうことはできなかった。
まったく食欲が湧かない。それでも、浩志が心配するので無理やりスクランブルエッグを口に運んだ。
こうして話していると、騙しているようでつらくなる。悲しいけれど、夫と同じ空間にいるのが苦痛になってしまう。これ以上嘘をつきたくなかった。しかし、夫が立ちあがると、途端に心細さが湧きあがってきた。
「もう……行っちゃうの?」
つい本音が溢れだす。今日はずっとそばにいてほしい。傷ついた心と身体を慰めてほしい。なにも言わなくていいから手を握っていてほしかった。
「由香里……なにかあったのか?」
浩志が驚いたように見つめてくる。その澄んだ瞳から、恋人時代と変わらないやさしさが伝わってきた。
「や、やだ……浩志さんったら、冗談に決まってるじゃない」
「え……冗談?」
「ほら、早く行かないと遅刻しちゃうわよ」
無理に笑顔を作って誤魔化すと、由香里も慌てて立ちあがる。これ以上夫の顔を見ていたら、涙が溢れてしまいそうだった。
浩志が軽く右手をあげて玄関から出ていくと、由香里は腰が抜けたようにへたりこんだ。夫と言葉を交わすたびに嘘が増えて、罪悪感が膨らんでいく。
引っ越すことで楽しい毎日を送れると思っていた。しかし、今は明るい未来をまったく想像できなかった。
涙腺がゆるみそうになるが、まだ泣くわけにはいかない。由香里はなんとか立ちあがるとキッチンに向かい、トレーに食事を載せて二階へとあがった。
「沙緒里ちゃん、朝食を持ってきたわ。入っていい?」
娘の部屋のドアをノックするが返事がない。もう一度ノックしてから、ノブをまわしてドアを開けた。
「入るわね……」
カーテンが閉めきられたままで薄暗い。だが、由香里はあえて部屋を明るくしようとは思わなかった。
沙緒里はベッドの上で頭からすっぽり毛布を被っていた。壁側を向いて丸まっており、じっとしたまま動かない。きっとなにをする気力も湧かないのだろう。
由香里はあえて言葉をかけなかった。
無理やり元気を出させようとしても無駄なときがある。レイプされた女がすぐに立ち直れないことは、自らの体験でわかっていた。今、母親としてできることは、やさしく見守ってあげることだけだった。
「お腹、空いてないかもしれないけど、少しは食べてね」
トレーを勉強机の上に置くと、静かに部屋を出ていこうとする。そのとき、毛布のなかからくぐもった声が聞こえてきた。
「ママ……」
沙緒里が呼んでいる。消え入りそうにか細い声で母親を求めていた。
由香里はすぐさまベッドの脇にしゃがみこむと、手のひらを毛布越しの背中にそっと触れさせる。その途端に沙緒里はビクッと身体を硬直させた。牛島にレイプされた恐怖がよみがえったのかもしれない。小刻みな震えが伝わってきた。
「大丈夫よ。ママはここにいるわ」
できるだけ穏やかに語りかけながら背中を擦る。とにかく、可愛い娘を一時だけでも安心させてあげたかった。
「ずっといっしょにいてあげる……ママがずっといっしょよ」
やさしく背中を擦っていると、しばらくして寝息が聞こえてきた。
昨夜は一睡もできなかったのかもしれない。夫の手前、沙緒里に付きっきりというわけにはいかなかった。ひとりきりで不安な夜を過ごしたのだと思うと可哀相でならない。こらえきれずに涙が溢れだした。
「ごめんね、沙緒里ちゃん……弱いママでごめんね」
娘を守るために強くなりたい。心の底からそう思った。
そのとき、階下でインターフォンのチャイムの鳴る音が聞こえた。
由香里は胸騒ぎを覚えつつ、眠っている沙緒里を残して部屋を後にする。階段を半分ほど降りたところで玄関に人影が見えて、思わず悲鳴をあげそうになった。