母娘喰い 奪われた媚肉

鏡を見つめて、三十六にしては悪くないなと頷いた。

若い頃から肌のケアは欠かしていない。さすがに十代二十代のような張りはなくなったが、代わりにしっとりと柔らかい餅肌になっていた。

ダブルベッドにそっと横たわる。夫は規則的な寝息をたてており、まったく起きる気配がない。なんとなく不安で、スタンドライトをつけたまま寝ることにした。

二階には三つの洋室がL字形に配置されている。夫婦の寝室の隣は、浩志の書斎にする予定だ。今は未整理の段ボール箱が置いてあり、物置のような状態になっている。娘の部屋は書斎の隣、夫婦の寝室の斜め向かいに位置していた。

(沙緒里ちゃんは……大丈夫よね)

娘は幼い頃から寝付きがいいので、今頃はぐっすり眠っているだろう。夜中にトイレなどで起きて、牛島とばったり顔を合わせることもないはずだ。

あれこれ考えていると余計に目が冴えてくる。無理やり眠ろうと瞼を閉じているうちに、いつの間にかまどろんでいた。

「ううっ……」

突然、呼吸が苦しくなった。

浅い眠りから急激に意識が覚醒していく。胸騒ぎを覚えながら目を開くと、どういうわけか息のかかりそうな距離に牛島の顔があった。

(な、なに……どうなってるの?)

由香里はパニックに陥りかけて身を捩る。しかし、まったく身動きできない。いつの間にか布団を剥がされて、牛島が腹部に馬乗りになっていた。

息苦しくなったのは、口もとを手で覆われたからだ。グローブのような手で口を押さえこまれている。しかも、もう片方の手にはキッチンから持ちだしてきた包丁が握られていた。

「ひむうっ……」

悲鳴をあげたつもりが、くぐもった呻き声にしかならない。口を塞がれているため、助けを呼ぶことはできなかった。

とにかく両手で男の胸板を押し返そうとする。すると手のひらがヌメッとした肌に直に触れて、全身におぞましさがひろがった。

(やっ……ど、どうして?)

なぜか牛島は服を着ていない。贅肉だらけの胸板が剥きだしになっていた。下半身は見えないが、もしかしたら全裸なのかもしれない。想像しただけで、恐怖と嫌悪感が爆発的に膨れあがった。

「むううっ!」

身の危険を感じて暴れるが、身じろぎひとつできない。巨体が馬乗りになっているうえ、口を押さえられているのだ。女の力で敵うはずがなかった。

「騒ぐな。ざっくりいくぞ」

牛島が低い声でつぶやき、包丁で頬をピタピタと叩いてきた。

スタンドライトの淡い光が、中年男の横顔を照らしだしている。その目は異様な光を放っており、本性を露わにしたかのような残忍な形相になっていた。

「俺には失う物はなにもない。家族も、金も、なんにもねえ。マイホームなんて夢のまた夢だ。わかるか? 守る物がないから、なんでもできるんだ」

あくまでも囁くような声だが、充分本気度が伝わってくる。下手に抗えば躊躇することなく包丁を突きたてそうな雰囲気だ。

(いやっ……ひ、浩志さん)

心のなかで助けを求めようとしてはっとする。夫と娘は無事だろうか。恐るおそる隣を横目で見やると、浩志は静かに寝息をたてていた。

「フッ……まだ無傷だよ。俺の言うとおりにすれば、旦那と娘には手を出さない。でも、少しでも逆らったときは……」

牛島は目の前で包丁を揺らしてみせる。それは、反抗すれば夫を傷つけるという脅しに他ならなかった。

(そ、そんな……)

由香里は口を押さえられたまま、反射的に首をいやいやと左右に振る。微かな動きにしかならないが、途端に牛島の顔が険しくなった。

「そうかい。従いたくないって言うんだな」

牛島は右手に持った包丁をかざすと、隣で眠っている浩志の顔面に向かって振りおろした。

(やめてぇっ!)

悲痛な叫びは、口を塞いだ大きな手に吸いこまれる。一瞬にして顔から血の気が引き、心臓が凍りついた。

ザクッ、という不気味な音が淡い光に照らされた寝室に響き渡る。

由香里は思わず両目を強く閉じて肩を竦ませた。静寂が恐ろしくて目を開けることができない。それでも、勇気を出してゆっくりと瞼を持ちあげていった。

(ああ……浩志さん)

双眸から涙が溢れだし、全身からどっと力が抜けていく。

包丁は浩志の顔のすぐ手前、枕に深々と突き刺さっていた。数センチずれていたらと思うと恐ろしい。当の浩志は何事もなかったかのように眠っていた。

「まだ俺に反抗するか?」

牛島の顔には凄絶な笑みが浮かんでいる。今度逆らえば、本当に夫を傷つけるような気がした。

「なあ、奥さん。あんたの態度しだいで、新築のマイホームで楽しく暮らせるかどうかが決まってくるんだ。さあ、どうする?」

ドスの利いた声で迫られて、由香里は口を塞がれたまま頷くしかなかった。

家族を守るためには、牛島の要求に応じるしかない。なにを考えているのかはわからないが、とにかく怒らせるのは危険だった。

「それじゃあ、手を離すぞ。いいか、絶対に声を出すなよ」

牛島は枕に刺さっている包丁を抜き、由香里の頬に押し当てて命令した。

言われなくても、もう反抗する気力も勇気もない。由香里は震えながら頷いて目を閉じた。口から手が離されて、ようやく呼吸が楽になる。しかし、この状況で安心することはできなかった。

「お願いです。夫と娘には──うむううっ!」