母娘喰い 奪われた媚肉

「奥さん、俺は幕の内でいいっすわ」

「はい?」

「昼飯を買いに行くんですよね。俺は幕の内弁当で」

どうやら先ほどの話を立ち聞きしていたらしい。牛島は図々しく弁当を注文すると、玄関ドアを開けてなかに入っていった。マイホームを汚されるような気がして、思わず溜め息が漏れた。

せっかくの楽しい気持ちが台無しだ。そのとき、浩志が振り返って、「悪い、頼む」というように、顔の前で両手を合わせてきた。

(浩志さん……わかったわ)

由香里は小さく、しかし力強く頷き返す。

先輩を部下に持った夫の苦労を思えば、一日だけ我慢するのなど容易いことだ。それくらい、サラリーマンの妻として当然のことだろう。

家を離れて歩道を歩きながら空を見あげると、遠くから真っ黒な雲が近づいてくるのが見えた。

(雨が降るのかしら……)

そこはかとない不安を覚えながら、由香里は足早にコンビニへと向かった。

「昼食の後は昼寝をするのが日課なんで、ちょっと休ませてもらいますよ」

牛島は代金を払わずに幕の内弁当をガツガツ平らげると、リビングのソファで堂々と横になった。

頼みもしないのに引っ越しの手伝いに押しかけておきながら、弁当だけ食べて昼寝しようとしているのだから呆れてしまう。浩志は苦笑いを浮かべ、沙緒里は驚いたように目を丸くしていた。

「あ、お気になさらないでください。俺はまわりがうるさくても眠れるんで」

牛島は目を閉じると、ものの数秒でいびきをかきはじめる。どうやら本当に眠ってしまったようだ。

よほど図太いのか、それとも無神経なのか。いや、もしかしたらなにも考えていないのかもしれない。とにかく、これほどあつかましい人間には、これまで出会ったことがなかった。

「浩志さん……」

由香里が迷惑そうな顔を向けると、浩志は困ったように頭を掻いた。

「きっとお疲れなんだよ。ここのところ忙しかったから」

言い訳じみていたが、夫の立場を思うと責められない。いくら部下とはいえ、ひとまわりも年上の先輩に強く言うことなどできるはずがなかった。

「おじさん、本当に寝ちゃったね」

沙緒里が笑いながらつぶやいた。

もちろん、牛島に言い寄られていたことは娘にも話していない。由香里にとって牛島は怪しげな中年男だが、十六歳の娘にとっては〝変わったおじさん〟程度の印象しかないのだろう。

「沙緒里ちゃん、食べ終わったのなら、自分の部屋の片づけをしてしまいなさい」

娘を牛島から遠ざけたかった。口を開けて眠りこける牛島を見ると、四十八にもなって独身なのも頷けるような気がした。

「はーい。終わったらママたちの手伝いをするね」

沙緒里は元気に返事をすると、二階へとあがっていった。

「じゃ、僕たちもはじめようか」

簡単な昼食を済ませると、由香里と浩志も荷物の片づけを開始した。

大きな家具や電化製品は引っ越し業者がセッティングしてくれたので、もう動かす必要はない。細かい物を詰めた段ボール箱はかなりの数だが、事前の打ち合わせどおり各部屋に運ばれていた。

作業は荷ほどきと掃除がメインだ。由香里と浩志で一階リビングと二階の夫婦の寝室を、沙緒里は二階の自室を中心に片づけた。

荷造りするよりも、荷ほどきのほうが時間がかかるものらしい。引っ越し作業がひととおり終わると外はすっかり暗くなっていた。

その間、牛島はいっさい手伝いをせず、ソファで寝ていたのだから驚きだ。浩志に起こされるまで、延々と鼾をかきつづけていた。

「ふわぁっ、よく寝た。あれ、もう終わっちゃったんですか?」

牛島は巨体を起こすと、大あくびをしながら思いきり伸びをする。手伝いをしなかったことを謝罪する気はないらしい。それどころか、これ見よがしに首の後ろを手で揉みながら、「枕くらいないのかよ」と愚痴をこぼす始末だ。

「すみません。気が利かなくて」

浩志が申し訳なさそうに頭をさげる。牛島は寝起きのせいか不機嫌で、舌打ちをして大きく溜め息を吐いた。

(浩志さんは上司なんだから、そんなに気を遣わなくても……)

由香里は夫を見ていて、もどかしい気持ちになった。いくら先輩とはいえ、牛島の態度はあまりにも失礼すぎた。

「あの、牛島さん、もう遅いですし……そろそろ」

とにかく一刻も早く出ていってもらいたい。話しかけるのも嫌だったが、由香里は遠まわしに退席をうながした。だが、牛島はまだ居座るつもりらしい。ソファにふんぞり返って脚を組んだ。

「せっかくですから、引っ越し祝いに鮨でも取りましょうや」

「でも、明日も早いですから……」

浩志もさすがに難色を示した。それでも牛島は引きさがろうとしなかった。

「いやいや、課長。こういうことは、お祝いしなくちゃダメですよ。せっかくの引っ越しなんだから。俺にご馳走させてくださいよ」

そこまで言われたら浩志も断りづらかったようだ。結局押しきられる形で、鮨の出前を取ることになった。

「どうせなら乾杯しましょう。奥さん、ビールはありますか?」

ここまで来ると、よくそんなことを口にできるものだと感心する。

引っ越したばかりで、冷蔵庫にはなにも入っていない。由香里は夫のためだと自分に言い聞かせて、コンビニでビールを買ってきた。

いざ特上寿司四人前が届くと、牛島は急にトイレに立った。仕方なく浩志が代金を支払うが、戻ってきた牛島は知らん顔をしていた。最初から払う気などなかったに違いない。まったく呆れた男だった。