「いやいや、茉莉ちゃんが優秀な生徒なんですよ」
優也が茉莉の家庭教師をはじめたのは、一年あまり前のこと。故郷を離れて、東京の大学に入学した一年目の五月。茉莉が中学三年生のときだ。
優也が受講している高橋講師のイギリス現代文学の講義で、仁志乃繭がゲスト講師として呼ばれた。繭は、高橋講師の友人で、イギリス現代小説の翻訳家であり、小説家だと紹介された。
だが優也にとって、繭にはもうひとつの肩書があった。お隣さんだ。
優也は大学入学とともに実家を出て、東京の二十三区の端に建つマンションの一室に入居し、一人暮らしをはじめた。その隣室に、繭は住んでいる。引っ越ししたときに挨拶をしたし、これまでに何度も顔を合わせて、言葉を交わしている。しかし繭の職業を知るほど親しくはなかった。
講義が終わると、繭のほうから声をかけられた。人懐っこい笑顔で、繭と高橋講師が旧交を温める場に誘われる。
静かな雰囲気の居酒屋で大人二人が酒を酌み交わし、優也がソフトドリンクを飲むなかで、高橋講師が優也は変わり種だと告げた。
「こいつは英文学専攻のくせに、数学科の学生に負けないくらい数学が得意なんだ。変人だろう」
と、動物園の珍獣を解説するように言われてしまう。
「ぼくはパズルを解くのと同じように、数学の問題を解くのが好きなだけです。物理や化学は全然わからないですから」
優也は正直なところを言ったが、繭と高橋講師は笑い合う。
「あら、わたしたちから見たら、因数分解ができるだけですごいわ」
「俺なんか、もはや分数の足し算も怪しいぞ」
翌日、優也の部屋のインターホンのチャイムを、繭が鳴らした。そして、はじめて優也のマンションの部屋に入った女になった。
繭は、娘の茉莉の数学を見てほしい、と頼んだ。優也は家庭教師なんて無理だと言ったが、押しきられてしまう。
試しに中学三年生の茉莉の勉強を見てみると、優也が予想していたよりも優秀な生徒だった。文系の教科の成績は、学校でもトップクラス。苦手な数学も、考え方に苦労しているだけで、理解すれば呑みこみは早い。
優也は週に一度、茉莉の部屋で数学を教えた。
すぐに優也は、仁志乃母娘の家庭の状況を知る。繭の夫であり、茉莉の父親である仁志乃健治は、茉莉が六歳のときに事故で亡くなっていた。
夫を失う前から、繭は小説を発表していた。今では、誰もが知るベストセラー作家というわけではないが、熱心な読者がいる人気作家だ。幻想的な作風と名前から、ファンからは『オズの魔法使い』のキャラクターになぞらえて、西の魔女と呼ばれている。
未亡人と女子中学生の二人暮らしの家に、男子大学生が入りびたるのはどうか、と優也は考えていた。しかし気がつくと、優也は家庭教師の日ではなくても、三人で仁志乃家の食卓をかこんでいることが多くなった。
茉莉は希望の高校に入学して、高校一年生になった今も、優也に数学を教えてもらっている。
その成果が、今、目の前にある。
「数学が8を取れたから、約束通り、茉莉ちゃんにご褒美をプレゼントするよ。今から買いに行こう」
「ありがとう、先生! 着替えてきます!」
茉莉は制服のプリーツスカートをひるがえして立ち上がり、タタタッと居間から出て、自分の部屋へ駆けこむ。
残された優也と繭は顔を見合わせて笑った。
「本当に欲しかったんだなあ」
「優也くんに高いものを買わせる約束をさせてしまって、申しわけないわ。わたしのほうからお礼をするべきなのに」
「繭さんにはいつも、おいしい食事をごちそうになってるから、そのお返しにもならないですよ。それに茉莉ちゃんの成績がいいのは、本人の努力の結果だから」
数分後に、茉莉が居間にもどってきた。
白い半袖のブラウスに、ダークブルーの膝丈のスカートという、今どきの高校生としては地味なファッション。さっきまで着ていた高校の制服のほうが、私服より派手に見える。優也が知るかぎり、茉莉の服装はいつもこういうテイストだ。茉莉自身が、かわいいファッションは似合わないと思っている。
「先生、行こう。今日は、母さんはついてこないでね。先生とのデートなんだから」
優也はあわてて茉莉の母親の顔を見て、首を左右に振る。
「いや、デートって。今までにも、茉莉ちゃんと二人で買い物に行ったことはあるし、今日も特別なことはなんにも」
若い男の焦る顔を、繭は微笑んで見つめ返した。
「わかっているわ。優也くんは真面目な紳士よ。安心して娘のデートのお相手をまかせられるわ」
優也は立ち上がり、たずねる。
「なにか、買い物をしてきましょうか」
「そんなことは考えないで。今日は茉莉と楽しんで」
「それでは、行ってきます」
優也は茉莉と並んで外に出て、エレベーターへ向かった。
*
二人は電車に乗り、東京の中心へ出た。茉莉が褒美に望んだ品物を買うために、美術専門店に入る。
茉莉は母親や優也と同じく英文学科を志望しているが、美術が好きだった。茉莉が欲しがったのも、優也が知らない現代芸術作家の作品集だ。
壁の書棚に並ぶ作品集のコーナーで、茉莉は目的の本以外にも目についた本を手に取っては、ページを繰って、瞳をキラキラと輝かせる。
優也にはさっぱりわからない。店内で茉莉が楽しげに見つめる現代芸術の写真は、どれもこれも意味不明の奇妙な造形物だ。単純な形の物体が無造作に室内や屋外に置かれていたり、優也のボキャブラリーでは描写できない複雑で異様な形状のものが鎮座したりしている。