家庭教師と隣の母娘 誘惑の個人授業

茉莉はしばらく店内を散策して、優也が知らない知識を楽しげに披露してから、目的のハードカバーの本をレジへ出した。

レジで金を払ったのは優也。正直なところ、一般的大学生の金銭感覚から見て、本にしてはかなり大きな出費だ。それでも茉莉の喜ぶ顔を見ると、約束を守ってよかったと思う。

店を出ると、電車内で決めた通りに、近くにある最近話題のカフェへ向かう。テレビで紹介された看板を、茉莉が先に見つけた。

「ほら、あれ」

ほとんど無意識に、足早に進む。

そのときビルの陰から、赤い自動車が姿を見せ、すべての交通法規を無視して、歩道へ向けて曲がった。スピードを落とさず、まっすぐに茉莉へ向けて突進してくる。

茉莉が危ないと感じると同時に、優也の両足がダッシュする。自分がなにをしているのか、認識したときには、両手で茉莉を突き飛ばしていた。

直後に、優也は体験したことのない衝撃を受ける。

(あ、空を飛んでる)

ぼんやりと思い、意識が暗転した。

病院だった。

ひと目見て、優也は病院のベッドに横たわっていると気づいたが、知っている病室ではなかった。

目の前のはじめての医者が、安心感を与える表情で、優也の現状を告げた。

「藤倉さんは、幸いにも右の前腕骨を単純骨折しただけです」

そう言われて、暴走車とぶつかったことを思い出した。それから自分の右腕が、白いギプスで固定されていることに気づく。

「障害も残らないでしょう」

医者の言葉が終わると、病室の扉が開いて、茉莉と繭が飛びこんでくる。

茉莉はベッドサイドに立ちつくし、涙を流しながら、ごめんなさいとくりかえした。

繭も沈んだ表情で謝罪を口にする。

優也は自由な左手で、茉莉の右手を握った。元気なことを伝えるように、五本の指に力をこめて笑いかける。

「茉莉ちゃんが無事で、本当にうれしいよ。茉莉ちゃんはなにも悪くない。自分があんな超人的スピードで動けるなんて、思いもしなかったよ。あれが火事場の馬鹿力ってやつなんだな」

優也の言葉を聞いても、茉莉は泣きやまなかった。

優也の父が、アメリカから駆けつけたのは翌日だった。大きな商社に勤める父は、優也の大学入学とともにアメリカの支社に赴任している。大学生の優也がいいマンションに住めるのも、父が社内でかなり高い地位にあるおかげだ。

優也もわかってはいたが、母親は見舞いには来なかった。おそらく父は連絡もしていないだろう。優也が十歳のときに、母親は離婚して家を出て、今はどこかで再婚しているとだけ聞いている。

父は、優也の検査が終わり、退院してマンションにもどるまで、日本に滞在した。繭が、優也の右手が使えない間は、自分が面倒をみるという言葉に安心して、アメリカへ帰っていった。

警察の報告によると、優也をはね飛ばした運転手は、今やおなじみの危険ドラッグでトリップしていたそうだ。そのため事故は全面的に運転手の責任になり、父が雇った弁護士が賠償金の交渉をしている。

そうして、優也のこれまでとは違う日々がはじまった。

第一章 家庭教師と飢えた未亡人

ダイニングキッチンに、食欲を直撃する香りが満ちた。

優也は鼻の穴を広げて、魅惑の匂いを吸いこむ。

右腕にギプスをはめたままなので、上は黄色いランニングシャツ、下は片手でも穿きやすいゆったりした黒いハーフパンツに裸足という格好で、キッチンテーブルの前の自分用の椅子に腰かけていた。

視線の先では、見慣れた自分のキッチンで、仁志乃母娘が昼ご飯の支度にいそしんでいる。

優也が退院して、マンションの自室にもどった日から、三度の食事はすべて繭と茉莉がやって来て、作ってくれるようになった。

茉莉の家庭教師をはじめてから、仁志乃家でごちそうになることは日常になっていたが、優也の自宅で食事を作ってもらうのはこの機会がはじめてだ。

左手は使えるから、スーパーで惣菜やレトルト食品を買えば問題ない、と優也は言った。しかし繭と茉莉は、優也のお世話をすることを、父親と約束したと主張して聞かなかった。

今日の繭は夏らしい水色のノースリーブのワンピースに、愛用の白いエプロンを着けて、海鮮中華丼を作っている。左手ではうまく箸を持てない優也のために、必然的にスプーンで食べられるメニューになった。

繭の料理は一見するとたいして手間がかかっていないように思えるが、いつも優也は奥深い味付けに感心させられる。優也も一年以上自炊をしてきたが、とても作れない主婦の逸品だ。

茉莉は白いTシャツとダークブルーのショートパンツに、やはり愛用のレモン色のエプロンを着けて、サラダを作っている。巧みな包丁さばきで野菜を切り、皿にきれいに盛りつけていた。仲のいい親子らしく、母親から娘へ料理のテクニックがしっかりと伝授されているのが微笑ましい。

引っ越しのときに買った見慣れたテーブルも、並んでいるものが違うと、新鮮に見える。味付けも見栄えも適当な男子大学生の料理と、母娘の愛情がこもった一汁三菜では、まさに月とすっぽん。

ギプスが取れたら、繭さんに料理を教えてもらおう、と考えながら、優也は繭と茉莉がエプロンをはずして椅子に座るのを待った。

テーブルの対面に腰かけた母娘と口をそろえて、いただきますと告げる。