やがて優也のそばにもどってくると、茉莉は告げた。
「わかる必要なんて、ないと思いますよ」
「どういうこと?」
「わからなくても、見ているだけで、なんとなく楽しい気分がするでしょう」
優也はあらためて『群れ』を見た。
確かに、色も形も躍動感があり、ユーモラスな雰囲気だ。水田の上を、不思議な未知の動物がにぎやかに行進しているように思えてくる。
「うん。楽しそうだね。緑の田んぼの上にあるのも、なんていうか、すごく鮮やかでいいよ」
「それです、先生。現代アートは、現実の社会問題を表現する作品も多いけど、青葉里ビエンナーレは見る人を楽しませる作品ばかりなのがいいんです」
茉莉に先導されて、次の作品へと移動した。
十分ほど歩くと、河原に出る。澄んだ清流の岸辺に、『群れ』よりも不思議なものがあるのが目に入った。
近づくと、ふわふわした白い綿のようなもので作られた棒を、いくつも組み合わせたジャングルジムのようだ。
ただし、ジャングルジムは動いている。
美術品といえば、絵画や彫刻のように動かないものをイメージしている優也には、作品が動くだけでも驚きだ。
ふわふわの白いジャングルジムは、全体の形を常に変形させて、ゆらゆらと揺らめいては傾き、前後左右に動いている。あまり位置を移動しないのは、小刻みに動く向きを変えているので、一つの方向へ長く進むことがないからだろう。
優也は好奇心に駆られて、作品が動く仕組みを見きわめてやろうと、じっと観察した。
白い綿は化学繊維で、中に金属の骨組みがある。骨組みのあちこちに小さなモーターがあり、長さを縮めたり伸ばしたりしている。
すべての骨組みが独立したモーターによって、てんでんばらばらに長さを変えるので、全体の形が変化して、バランスを崩し、常に揺れ動いているのだ。
そばに作者名とタイトルが書かれた立て札があったが、優也は見る気にはならなかった。今はただ目の前の奇妙な動くものを見つめていたい。
そして、つい言葉が出てしまう。
「この変てこなものは、なにを表しているんだろう」
「それです、先生!」
茉莉は溌剌とした声をあげる。
「目の前に、日常生活ではありえない変てこなものが、ドーンと存在する。それが現代アートの楽しみです。本や映画でも変てこな体験できるけど、こうして目の前に実在しているのが現代アートの魅力です」
「でもなにを表しているのか、わからないと、気になるだろう。昔の絵や彫刻だと意味がわかる」
「昔の作品がわかる、というのは勘違いです」
「えっ、でも」
「古典絵画や古典彫刻は、当時の文化のお約束にしたがって作られています。絵に描かれた題材ひとつひとつに、象徴的な意味がある。たとえばライオンはイエス・キリストの象徴だとか。それを知らない現代人には、正しい意味はわからない」
「なるほど」
「もちろん、作者には制作意図があります。作者の言葉があって完成するアートもあります。でも青葉里ビエンナーレでは、とにかく見て、触って、感じて、楽しむのが一番です」
茉莉は言葉を終えると、黙って白いジャングルジムの動きに合わせて、身体を揺らしはじめた。
優也の目には、まるで茉莉が動く作品と一体化して見えてくる。
(こんな茉莉ちゃんは、はじめてだ)
茉莉がくねっていると、いつの間にか、まわりに小さい子供がたくさん集まってきい、まねをして身体をくねらせはじめる。服装の雰囲気からして、青葉里に住む子供と、観光に来た家族の子供が混じっているようだ。
(うーん、なんだこれ)
芸術作品をかこんで自然に起きたパフォーマンスに、優也は目を見張る。優也が現代芸術と聞いて想像するやたらと難解で真面目なイメージとは大違いだ。
ひとしきりくねくねした後で、茉莉は子供たちとハイタッチをしてから、元気に告げた。
「先生、次の作品へ!」
*
優也と茉莉は午後六時ギリギリに、旅館にチェックインした。
案内された部屋は、落ち着いた和室。もともと青葉里は観光地ではないので、旅館も木造の家だった。
夕食は、仲居が部屋までお膳を運んできてくれた。派手さはないが、おいしそうな和食が並んでいる。
二人で向かい合って、野菜の煮物や、焼いた川魚を食べていると、なんともいえないしみじみとした気分になる。
優也は、すぐ前で茉莉が白米を口に運んで、もぐもぐと咀嚼するのを見つめて、ふっと洩らした。
「そういえば、ぼくは女の人と二人きりで旅行するのは、これが初体験だよ」
「わたしも、男性と二人きりで、旅館に宿泊するのは、今夜がはじめて。この旅館だと、なんだか昭和のはじめのころの新婚旅行みたいですね」
「新婚旅行かあ」
(このまま茉莉ちゃんとつきあえば、いつかは結婚するのかもしれない。二人で旅行する関係になったからには、ぼくもきちんと責任を取るつもりはある……)
そこまで考えて、脳裏に繭の顔が浮かんだ。顔だけでなく裸の豊乳も、むっちりした下半身も浮かんでしまう。
(親子に二又かけてるのに、責任なんて言うのも変かなあ。いつかは決着をつけなくちゃならないんだし)
「先生、今、母さんのことを考えてるでしょう!」
いきなり正面から飛んできた鋭い声に、優也は額を指で弾かれたようにのけぞった。
「そっ、そんなこと、ないよ」