あらためて見直す茉莉の顔は、怒っているのではなく、思いつめたせつない表情だ。昼の現代アートの前ではしゃいでいた十六歳の女子高生とは対照的な、大人の女の顔つきに見える。
「先生、わたしも母さんのようにしてほしい」
「繭さんのようにって、どういうこと?」
「お父さんが処女だった母さんをエッチな身体に調教したように、先生の手でわたしを母さんみたいなエッチな身体に調教してほしいんです」
「そんなことは無理だよ。茉莉ちゃんのお父さんは、繭さんと会ったときには経験豊富なプレイボーイだったんだ。ぼくは茉莉ちゃんがはじめての女性だ。調教なんて、どうしていいのかわからないよ」
「先生がしたいことはなんでも、わたしにしていいです。どんなことでも、受け入れます」
茉莉の瞳が、偽りのない真摯な光に輝く。その光が、優也には痛々しく感じられてならない。
「茉莉ちゃんは繭さんに負けたくないから、調教してほしいなんて、無理して言ってるんだろう。無理をしなくても、ぼくは茉莉ちゃんを好きだよ」
「でも、母さんも好きなんでしょう」
「それは、そうなんだけど」
「やっぱり、今のままでは母さんに負けちゃう!」
ヒステリックに叫ぶのではなく、低く沈んだ声音が畳敷きの客間を這った。聞いているだけで、ただごとではないとわかる。
「と、とりあえず、ご飯を食べちゃおうよ。その後で、話し合おうよ」
「はい」
返事の後、茉莉は無言でおかずと米をかきこみはじめた。
(そんなに急いで食べなくてもいいのに)
と、優也は言おうとしたが、とても話しかけられる雰囲気ではない。やはり無言で箸を運びつづけた。
食事が終わり、仲居が膳を下げると、二人は向かい合った。
しばしの沈黙の対面の後に、優也は告げた。
「茉莉ちゃんになんでもしていい、と言ったよね。それなら、外でエッチなことをできるかい」
「外で!」
「そうさ。旅館を出て、そうだな、青葉里ビエンナーレの作品の前でするんだ。できるかい?」
ふふんと息巻いて、両腕を胸の前で組み、ぎろりと茉莉をにらむ。
(茉莉ちゃんもさすがに、屋外ではできないだろう。ぼくだって、恥ずかしくてできないよ。これくらい言っておけば、茉莉ちゃんもムチャなことは言わなくなるはずさ)
茉莉がポツリとつぶやいた。
「ビエンナーレの作品の前でする」
優也は腕を組んだまま、懸命に上から目線を演じる。
「そうそう。作品の前だ」
「すばらしいかも」
「はあっ!」
演技を崩して、優也は声を上ずらせてしまう。
調教して、と口にしたときから、茉莉の顔は重いプレッシャーを背負ってこわばっていた。今、顔の筋肉がほぐれて、明るい光が射している。
「すばらしいです! アートの精神を感じます!」
「えええーっ!」
優也の組んだ両腕を、茉莉の両手の指がガシッとつかんだ。そのまま引っぱられて、腕をほどかれる。
「行きましょう!」
「いや、その」
(茉莉ちゃんの変なスイッチを入れちゃった! 今さら、茉莉ちゃんをビビらせるために言ってみただけ、なんて男として言えないよ!)
胸の中でうめいている間に、茉莉に両手を引かれて、客室から連れ出された。そのまま階段を下りて、旅館の人にパンツのベルトにつけられるハンドライトを二つ借りて、玄関を出た。
旅館の周囲は、街灯や建物の明かりで、歩くのに不便はなかった。茉莉はスマホに作品の場所の地図を表示して、先に立って進む。
茉莉が目指すのは、まだ見ていない作品のひとつ。
青葉里ビエンナーレは、作品が広い町内に点在しているのに加えて、茉莉はひとつの作品の前に長くいる。一日ですべての作品をまわることは、最初から考えていなかった。
地図によれば目的の作品は、水田にある『群れ』や河原の動くジャングルジムなどと違って、普通の住宅の間にあるようだ。
優也は足を進めながら、街並みに視線をめぐらせる。自分たちが住むマンションのある町は、家がぎっしりとつまっているが、青葉里ではそれぞれの家に広い庭があり、さらに家と家の間にはかなりの余裕がある。
都会とくらべて、人口密度はかなり低い。
それでも家々の窓には光が灯り、ときに住んでいる人の影が映る。歩いている道でも、すでに何人かの歩行者とすれちがっている。
(田舎といったって、人はけっこういる。本当に外でできるんだろうか?)
優也はそっと瞳を動かし、街灯に照らされる茉莉の顔を見た。
若い美貌が硬くこわばっている。
茉莉もまわりに視線を走らせ、ときにとらえる人の影にびくついていた。
(旅館では盛り上がって、勢いで出てきちゃったけど、本当に外でできるの? 今ならまだ、ただの冗談ですませられる。先生だって、わたしが断れば、無理強いはしないはず)
同時に頭の奥で、別の言葉が響く。
(こんなとき、母さんなら……)
優也に貫かれているときの母親の態度や、この一週間で母親から聞き出した亡父とののろけ話から考える。
(母さんなら、先生に命令されたら、喜んで外でセックスするわ)
頭の中に、マンションのすぐ前の道路で、裸の優也と母親が立ったまま交わる映像が浮かんだ。娘の嫉妬が生んだイメージの母親は、よがり声をあげながら、豊満な乳房を大きく弾ませつづけ、こっちに向かって妖艶に笑う。勝ち誇った表情ではない。ただ愛する男のシンボルで、女の中心を貫かれる歓喜に輝く顔だ。