優也の目に、心からの笑顔が映った。
第五章 家庭教師と秘密のホテル
繭が北海道から帰ってきたのは、五日後だった。それから二日間は、仕事部屋に閉じこもって取材で集めた資料の整理に費やした。
優也が繭とちゃんと顔を合わせたのは、帰宅してから三日後のこと。
この日、午後から優也は家庭教師として、茉莉に数学を教えた。編集者と次回作の打ち合わせをして帰ってきた繭を交えて、三人で夕食を食べ、居間でくつろいだ。
「本当はね」
と、繭がきりだした。
「北海道から帰ってすぐに聞きたかったのだけど、青葉里ビエンナーレで二人はどうだったのかしら?」
「どうだったって、どういうことですか」
優也は探りを入れる。繭の言いたいことはわかっているが、正直なところ、ビエンナーレで茉莉としたことを話したくない。
(あのときは普通じゃない空気に染まってやっちゃったけど、娘と外でセックスしたなんて聞いたら、繭さんは絶対に怒るだろうな)
優也の危惧をよそに、茉莉は答えた。
「旅館を出て、外で先生としたわ」
声の響きが、優也を戦慄させる。
(茉莉ちゃん、繭さんに自慢しようとしてるっ!)
予感の通り、茉莉は得意満面で青葉里ビエンナーレで起きたことを、母親に語った。とくにアリダ・サバチーニのアートの一部になったことは、踊りださんばかりに身ぶり手ぶりを交えて熱弁をふるう。とても優也が口をはさむ隙はない。
娘の話を聞いている繭の顔が、みるみる引きつっていった。
「なんなの、それはっ!?」
怒号の矛先は、茉莉ではなく、優也へ向かう。
「優也くんが屋外でそんなことをする人だなんて、思いもよらなかったわ!」
「そ、それは、その、芸術の魔力に引きこまれて、われを忘れてしまったんです。小説家の繭さんなら、創作物が持つ力はわかりますよね」
「非難しているのではないのよ。優也くんに、屋外でする勇気があるとは思わなかったわ。ごめんなさい。優也くんを過小評価していたわ」
「はあ、ありがとうございます」
「でも、納得いかないわ! 優也くんに野外プレイの趣味があるなら、わたしにもして欲しかった」
「趣味じゃないですから! あくまでもビエンナーレの雰囲気に呑まれただけです。二度とできません」
懸命に弁明する優也の横で、茉莉が口をとがらせた。
「えー、九月に開催される瀬戸内海の栗島ビエンナーレでも、先生としようと思ってるのに」
「またビエンナーレに行くのはいいけど、もう外ではしないから!」
今度は繭が不満な顔になる。
「えっ、わたしとも外でしてくれないのかしら?」
「繭さんとも、茉莉ちゃんとも、外ではしないですよ」
「わかったわ。それなら茉莉には絶対に不可能なことを、わたしが優也くんに体験させてあげる」
「母さん、なにをするつもりなの?」
娘の問いに、母親は余裕たっぷりの顔で宣告した。
「茉莉にはなくて、わたしにはあるものを使うのよ。それは」
テーブルの上のスマートホンを手に取り、画面に触れる。
「大人の財力よ!」
繭はスマホの向こうへ言った。
「もしもし坂田先生。お世話になっています、仁志乃です。前にすすめられたホテルに、わたしを紹介してほしいのですが。ええ、そうです……」
電話をつづける繭を、優也と茉莉は疑問の顔で見つめた。
「坂田先生って?」
「母さんと仲のいい小説家です」
*
優也と繭を乗せたタクシーは、東京都の一角に建つビルの前に止まった。
車内から先に降りた優也は、生まれてはじめてのファッションを身につけている。
ダークブルーのスーツにスラックス、ワイシャツ。首には渋い臙脂色のネクタイを締めて、足には黒い革靴。
タクシーに乗る直前に、レンタルショップで借りた衣装だ。この手の大人の恰好をするのは、ほとんどはじめて。店の鏡に映った自分のスーツ姿が、全然さまになっていなかった。まさに服に着られている状態だ。
料金を払ってタクシーから出た繭は、日ごろのカジュアルな服ではなく、フォーマルなワインレッドのスーツスタイル。足にはきちんと白いハイヒールを履いている。これもレンタルだ。
ただし優也と違って、繭はしっかりと着こなしている。
タクシーが走り去った後に、二人は目の前に建つ建物を見上げた。
時間は午後九時。
青葉里の満天の星空とは対照的な、東京の星の少ない夜空を四角く切り取って、これといって特徴のない三階建てのビルがそびえている。
二人の正面には、重厚な木製の両開きの扉がある。当然、扉の内部は、外からはうかがえない。
ビルの正体を示すものは、扉の上にある黒い長方形の板に浮き上がる白い文字。『会員制ホテル 新月』と記されている。
優也は視線を、ホテルの看板から自分のネクタイへ向けた。
「ドレスコードのあるホテルなんて、ぼくははじめてです。緊張する」
「わたしだって、はじめてよ。出版社のパーティーに出席するときには、それなりの恰好をするけれどね。今の服はどうかしら?」
優也はしっかりと、繭の頭からハイヒールの先までながめる。
「とてもきれいです」
「その口調だと、優也くんは、あんまり気に入っていないみたいね」
「いや、そんなことは」
正直なところは、普段の気どらないワンピーススタイルの繭のほうが好きだ。
「いいのよ。自分でも、こういう服は好きではないから。気が合ってうれしいわ」