翌朝。いつも通り、朝食のいい匂いが漂い始めたころ合いを見計らってダイニングキッチンに顔を出した裕は、床に土下座をして紬に謝罪した。
「ご主人様……」
焼いたばかりの鮭をグリルから取り出そうとしていた紬は、入ってくるなりいきなり床に這いつくばって謝罪する裕に戸惑いの声を漏らした。
「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい」
顔も上げられず、裕は謝罪の言葉を繰り返した。謝ったからといって、二つ返事で許してもらえるなどとは思っていない。もしかしたらこの朝食限りで暇乞いをされる可能性だって大いにあった。だが裕にできることといえば、とにかく謝ることだけだ。
「お、お顔を上げてください」
おずおずと、紬が声をかけた。裕は土下座のポーズのまま、顔だけを上げる。
紬はそんな裕の前まで歩み寄ると、向かいあって正座をした。
コーラルピンクのポロシャツに膝丈のティアードスカートという組み合わせ。
薄桃色のエプロンも、キュートな装いをいっそう引き立てている。
「紬さん……」
「わたしは、家政婦です」
もしかしたら、あらかじめ用意していた返事なのかも知れなかった。紬は恥ずかしそうにうつむき、両手の指を絡めてためらったが、やがてもう一度裕を見る。
「ご主人様に、オ、オナニーがしたいからパンツを貸してくれと命令されたら……そのご命令に従うのも、家政婦の役目だと思っています」
「えっ」
裕は驚いて目を剥く。そのとたん、紬の顔が真っ赤に火照った。いたたまれなさそうにうなだれ、それでも足りずに横を向いて、髪で顔を隠そうとした。
そんなウブな挙措が、裕の胸をキュンとときめかせる。
「お、怒って、ないの?」
おそるおそる聞いた。紬はうなだれたまま、両手の指を絡めてもじもじする。
「それは……見てしまったときは驚きました。でもご主人様、お若いんですものね。男の人って、その……処理をしないと……つらいものなんだって聞いています」
言葉尻は、消え入りそうなほど、か細かった。
「わたしがいると……かえってご迷惑ですか? お勉強に差し支えますか?」
心苦しそうに問われた。裕は紬同様正座の姿勢になり、ブルブルとかぶりを振る。
「と、とんでもない」
「ここにいても……かまわないんでしょうか?」
「もちろんだよ。いて。いてほしい!」
思わず哀願する口調になった。自分でも、感情のこもりすぎた言葉だったと気恥ずかしくなる。そんな裕の訴えに、紬ははにかんだ表情になった。
「わ……分かりました。それでは、引き続きお世話にならせていただきます。さっそくですがご主人様、お食事のご用意が──」
紬は再び朝食の準備に戻ろうと、床から立ち上がろうとした。
「紬さん。ちょっと待って」
裕は手を伸ばし、紬の肩を掴んだ。驚いたように紬が裕を見る。
「あ、あの……オナニーがしたいからパンツを貸してくれと命令されたら、それに従うのも家政婦の役目だと思うって言ってくれたよね?」
「え? あ、は、はい……」
羞恥にかられた仕草で、紬は小さく返事をした。
「それじゃ、たとえば……たとえばだよ? 一緒にお風呂に入って、その、せ、背中を流してくれって頼んだら……それもOKなの?」
「えっ……」
裕の問いに、紬は目を見張って絶句した。
(しまった。やっぱり調子に乗りすぎたかな)
紬の反応を見た裕は心のなかで天を仰いだ。
許してもらえただけでもありがたいのに、みすみす墓穴を掘る真似をしでかしてしまったのかも知れない。だが目と鼻の距離に向かいあって座り、可愛いことを言ってくれる紬を見ていると、どうしても言わずにはいられなかった。
どうせ死ぬほど恥ずかしい現場を目撃されてしまっているのだという開き直りに近い気持ちも、生真面目な裕をいつになく大胆にした。
「ご主人様が……そうしたいとお望みなら」
居心地の悪い時間は、いったいどれぐらい続いたのだったか。
裕が勇み足だったと重苦しい気分になり始めたころ、ようやく紬が答えた。
「──えっ。ほんと!?」
思わず声が弾み、気分が昂揚する。上がったり下がったり、朝っぱらから、まるでジェットコースターにでも乗っているようだ。
「お背中を流すだけ、ですよね?」
「も、もちろん」
「わたしは……下着姿でもかまいませんか?」
本当は紬にも全裸になってほしかったが、欲を言ってはバチが当たりそうだ。
「かまわないよ。あの……これからすぐにでもいい?」
結局昨日は風呂にも入らず床に就き、まんじりともできずに夜明けを迎えた。紬の気が変わらないうちに、願望を現実に変えてしまいたかった。紬は下唇を噛みしめ、困ったように落ち着きなく視線をさまよわせてから、やっと裕を見つめ返した。
「かしこまりました、ご主人様」
(遅いな。そろそろ来てもいいころなんだけど……)
それから三十分ほどのちのことだった。紬に風呂を沸かしてもらった裕は、もうもうと湯けむりのたゆたう浴室の湯船に肩まで浸かり、胸を躍らせていた。
何度も頬をつねった。一睡もできずに迎えた朝のつもりだったが、いつの間にかぐっすりと寝入り、今いるのは、実は夢のなかなのではないかと疑心暗鬼になった。
しかし、どうやらまぎれもなく現実らしい。
「あとからまいります。風邪を引かないように、しっかり温まってください」