遥香は一つ大きく息を吐くと、気分を切り替えるように裕に言った。
返事も聞かず、キッチンに戻っていく。
「う、うん」
裕はそんな遥香に形だけ返事をし、ひとりきりになった玄関で溜息をついた。
今日からは遥香が、夜は自宅に帰る「通いの家政婦」スタイルで裕の面倒を見てくれることになっていた。
(これでよかったんだ。これで……)
裕は自身に言い聞かせた。正直に言うなら、今すぐにでも千尋のあとを追いかけて、抱きしめてあげたかった。「紬さんは千尋お姉ちゃんだったんだって分かったよ」と伝えたいという気持ちもある。
だが、それをしたところでどうなる? となじるもう一人の自分もいた。
(千尋お姉ちゃんにだって、本当に婚約者がいるみたいだものな)
どっちみち期間限定でしか果たせなかった再会なのだ。それに、健気にもアナルまで捧げてくれた遥香を裏切ることなどできはしない。ほろ苦さと甘酸っぱさのミックスした言うに言えない未練はあるとはいえ、これで終わりにするしかなかった。
(アイスコーヒー、作ってくれるって言ってたんだっけ)
いつまでも、一人でこんなところにいてもしかたがなかった。
遥香も気持ちを切り替えたらしかったが、自分もそうしなければ──。
裕は「よし」と小さく言うと、玄関をあとにしてダイニングキッチンに戻った。
「……遥香?」
だが、キッチンに入った裕を待っていたのは、思いがけない光景だった。
流し台の前にエプロンを着けて立った遥香が、コーヒーの粉を計量スプーンにすくったまま、心ここにあらずといった様子で立ち尽くしていたのだ。
流し台にはコーヒーサーバーやドリッパーも用意されていたが、まだお湯を沸かしている様子もない。遥香の横顔は、心なしか青ざめて見えた。
「遥香」
もう一度、さっきより大きな声で呼んだ。
すると遥香はギクッと身をすくめ、手から計量スプーンを落とす。けたたましい音を立ててスプーンが転がり、流し台の上に珈琲の粉が散らばった。
「……裕」
遥香は裕の方も見ずに、わなわなと震えだした。立っているのもつらくなってきたのか、流し台の縁に手をやる。手も小刻みに震えていた。
「どうしたの?」
明らかに様子がおかしかった。心配になり、思わずそばに駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
思わぬ強さで拒絶された。驚いてたたらを踏む。遥香はなおも身体を震わせた。
「は……遥香」
「やっぱり私……すごく酷いことしちゃったよね?」
呻くように言った。裕は「え?」と言ったきり、言葉が続かない。
「裕。昨日、私たちの話聞いてたでしょ」
うつむいたまま、突然聞かれた。心臓がとくんと跳ねる。
何も返事をしないことが、裕の答えを雄弁に伝えていた。
「気がついたの。途中から。多分、千尋先輩は気づいてなかったと思うけど」
そう言うと、ようやくこちらに向き直った。
「私と先輩のほんとの関係、もう分かってるわよね?」
もう一度、ストレートに問われた。裕は思わず唇を噛みしめる。
「……うん」
「……」
遥香の瞳に見る見る涙が盛りあがった。ぽろりと溢れ、色白の頬を雫が伝う。
今度は裕がうつむく番だった。紬が幼いころの初恋の相手である千尋だと知りつつ、昨夜自分は遥香とアナルセックスまでしてしまったのだ。
少なくとも、結果的に千尋を家から追い出す仕打ちをした遥香を責める権利など、これっぽっちもありはしない。
「怖かった。私、怖かったの」
ぼろぼろと涙を零しながら遥香が言った。
「捨てられちゃうんじゃないかって。私じゃなくて、先輩を選ぶんじゃないかって」
「そ、そんなこと……」
「惨めな思い、したくなかった。裕は私のものだって。私のことをこんなにも求めてくれてるんだって、千尋先輩に見せつけたかった」
次第に感情をコントロールできなくなってきたらしい。早口になり、訴えるような泣き声で裕に言う。
「だから私、先輩に言ったの。裕がいなくなってから。『今夜私、裕とエッチをします。私と裕がどれだけ愛しあっているか見てもらえますか?』って」
「えっ。えぇ!?」
思わず目を剥いた──では昨夜、千尋が自分たちの卑猥なまぐわいを目にして泣きながら自慰に耽っていたことは、遥香も承知の上だったというのか。
「可哀想なことしちゃった。裕のこと、あんなに愛している人に。私ったら、何て残酷なことを」
言葉尻は泣き声に変わった。とうとう立っていられなくなったらしく、ぺたりと床にくずおれて女の子座りになる。両手で顔を覆って慟哭した。
「遥香……」
胸が痛んだ。どう声をかけていいのか分からない。だが、震える肩を抱いてやりたかった。いても立ってもいられず、もう一度遥香に駆け寄ろうとする。
「触らないで!」
もう一度、さっき以上の金切り声で叫ばれた。
「遥香」
「追いかけて」
「……えっ?」
「早く。千尋先輩を追いかけて」
泣きながら裕を煽った。
「でも」
「自分の心に嘘つかないで。裕なんか大嫌い。嘘つかれてまで選んでほしくない」
「は、遥香」
「急いで!」
有無を言わせぬ強い調子だった。裕は戸惑いながらも、じりじりと後ずさる。
「裕、何してるの!」
引きつった哀切な叫び声に背中を押された。きびすを返してキッチンを出る。
廊下を走って玄関に向かい、スニーカーを穿いて外に飛び出した。