「引っ越しをして別れてからも、ずっと心のなかに裕ちゃんがいたの。馬鹿みたいでしょ? 中学生になっても、高校生になっても、女子大生になっても……」
千尋は自嘲的に清楚な美貌を歪めて苦笑した。
──もちろん、今さらどうにもならないと思って、あきらめてはいたという。
だが父親が勤める会社の社長の御曹司に見初められ、結婚話が本格化すると、せめて一目だけでも裕を見たいと思った。千尋は想いを行動に移した。
「久しぶりに見た裕ちゃん、幼かったころの面影をそのまま残した可愛い男の子になってた。とても、ひと目見てすぐにさよならなんてできなくなったの」
そんな千尋の目に飛びこんできたのが、裕の家に貼られていた「家政婦募集」の貼り紙だった。千尋は身分を偽り、偽のプロフィールを書いた履歴書を海外に出張中という裕の母親に送って承諾を取りつけ、藤沢千尋ではなく「家政婦・愛原紬」として裕の家に入りこむことに成功したのだった。
「たしかに、裕ちゃんがすぐに私を千尋だと気づいてくれなかったのは寂しかった。でも、もうすぐ他の男の人のもとに嫁ぐ女に、いったい何が言える?」
黙って話を聞く遥香に、千尋は言った。
「可愛いと思った。いけない、いけないと思っても、少しずつ裕ちゃんに惹かれた。許されるなら、少しでも裕ちゃんのそばで長く過ごして『せめてもの最後の思い出』を作ってからお嫁にいきたいと思ったの」
そして裕と一緒に暮らすなかで千尋は気づいたという──かつて結婚の約束までした女性だとは気づかないまでも、裕が確実に自分を意識している事実に。
心が疼いた。婚約者のためにも操だけは守らなくてはと思って始めたはずなのに。
だが裕と一緒に暮らす内に、「裕ちゃんが望むことをしてあげたい」という想いが強まり、やがては「この子に処女をあげてもいい」とまで思うようになった。
しかし裕には恋人がいた。しかもあろうことか、相手は大学の後輩であり、たいせつな友達でもある遥香だった。可愛い後輩の恋人を奪うのは本意ではない。千尋は裕への想いと遥香への友情の狭間で悩み、苦しみ、葛藤した。
「それでも……裕ちゃんに求められると……幸せだったの」
「だからといって、セックスをしてもいいということにはなりませんよね」
そこまで大人しく話を聞いていた遥香が、突き放す言い方で言った。
「ごめんなさい」
言い返す言葉など一つも持ち合わせがないという声音で千尋が謝罪する。
「千尋先輩を見る裕の目つきが尋常じゃないことには、最初にこの家で先輩と裕が一緒にいるのを見たときから分かってました」
昂りそうになる感情を必死に抑え、遥香は言った。
「だから、あれほど約束したはずなのに、先輩が裕とエッチしたって気づいたときはショックだったし、正直、裕と別れることも考えました」
裕は息を飲んだ。そんなこと、言葉はもちろん態度にさえ、遥香は少しも出さなかったからだ。
「何が悲しかったか、分かりますか、先輩?」
声が震えていた。鼻を啜り、嗚咽が漏れる。
「自分で気づいていないだけで、裕は今でも幼いころ愛した千尋先輩を、潜在意識のなかで追い求め続けているんだって分かってしまったからなんです」
二人の会話を盗み聞きしてから、もうだいぶ経っていた。
だが、浮き足立つような気持ちは一向に鎮まってくれない。
そろそろ日付が変わりそうな時刻になっていた。すでに家のなかはしんと静まりかえっている。他の部屋と同様、裕の勉強部屋の明かりもとっくに消え、部屋を快適な温度に保とうとするエアコンが、ほどよく冷えた風を吐き出す音だけが聞こえた。
遥香には、母親が使っている二階の私室で寝てもらうことにした。
エアコンの使える部屋は(千尋が利用している一階の客間を除けば)、リビングとダイニング以外、他になかったからだ。
もちろん、二階に泊まってもらった方が都合がいいという理由もあった。遥香がこの家に来た目的は、公園での続きをするというものだったのだから。
(いや、ほんとはそれだけじゃなかったんだろうけど)
遥香と千尋の会話を盗み聞きし、二人の本当の関係を知った裕は苦い思いで考えた。
釘を刺したにもかかわらず、千尋が裕とただならぬ関係になってしまったことに気づいた遥香は、もう我慢できないと、裕に代わって「解雇通告」をしに来たのである。
もしかしたら、裕に求めたプロポーズの言葉も、そんな自分の言動に「裕の未来の結婚相手」という重みを与えるために必要だと思ったからかも知れなかった。
悪いのはすべて僕だ──裕は暗闇のなかで後悔の溜息をついた。
いやがる千尋を無理やり求めたのも自分なら、遥香につらい思いをさせ、あんな真似をさせてしまったのも自分だ。
裕はダイニングで、遥香が泣きながら口にした言葉を脳裏に蘇らせる。
「つらいです。裕は私より千尋先輩に惹かれているんです。やっと、やっとやっと恋人になれたのに。別れられるならどんなに楽か。でも別れられないんです。嫌いになりたくてもなれないの。私にとっても、裕はやっぱり大事な男の子だから」
遥香は慟哭した。「ごめんなさい」と謝る千尋も泣いていた。裕はそんな二人の会話を聞いて胸を締めつけられ、そっとその場をあとにしたのである。