「ああ、ありましたねえ。そんなこと、休みの日を利用して、ひどい雨の日」
ドクンと洋介の心に漣が起きた。
内心を悟られぬよう何気なさを装い返事をしたが、洋介にとっても忘れられない思い出だった。
「そう。本当にひどい雨だったの。それなのにあの二人ったら、傘も持たずに……」
あの日、綾香と洋介の他に、二人の先輩が一緒だった。その二人は、つきあって間もないカップルだったらしく、集合時間よりも早くからデートをしていたらしい。雨が降りはじめたのは、午後からのことで、それ故に、二人は傘を持っていなかった。
雨の街を歩くにも、二人が濡れてしまうからと、綾香と洋介の持っていた傘に入れてあげようと言うことになった。当然、洋介の傘には、男子の先輩が入るものと思っていたが、どういう訳か綾香が入ってきたのだ。
綾香が二人に気を利かせたらしいのだが、憧れのマドンナと相合傘となった洋介は、終始ドキドキのしどおしで、その日一日、どこをどう歩いたものかも覚えていないほどだった。
「お茶したり、CDショップを梯子したりで、散々歩いたけど、洋介くんが自分を犠牲にして、私をかばうようにしてくれたから全然濡れなかったの」
「よく覚えていますね。そんなことまで」
「だって、あっちの二人は、カップルなのにお互いが濡れないようにするものだから、結局二人とも濡れネズミで、最後は喧嘩までしていたじゃない」
話しながら昨日のことのように、おかしそうに笑う綾香。その笑顔を見ているだけで、洋介は幸せな気分になれた。そして、何よりもあの時のことを綾香が覚えていてくれたことが嬉しい。
「その時から、洋介くんってやさしい男の子なんだなあって、印象的だったの」
くすぐったいほどの甘酸っぱい思い出に、たゆたう洋介と綾香。そんな二人を現実に呼び戻したのは、ピーッと甲高く鳴ったケトルの笛の音だった。
「あっ、お湯が沸いた……」
そう言ってキッチンで立ち働く綾香の優美な所作を、洋介は飽かず目で追った。
ラフに着こなした白いブラウスの裾が、細身のジーンズの腰の辺りで優雅に揺れている。
ほどなくして綾香がティーセットを運んできた。
「ああ、本当にお構いなく……」
楽しげなクスクス笑いと共に、形のよい唇から白い歯がこぼれた。
「粗茶でございますから、どうぞご遠慮なく」
おどけた口調で、綾香が目の前にティーカップを並べてくれる。
心なしか先ほどよりも甘い匂いが、濃厚になった気がする。綾香が吐いた息を吸っていると思うだけで、血液が妖しくざわめき落ち着かない。
どぎまぎしながら視線を泳がせると、前かがみになったブラウスの隙間から胸元が覗けることに気がついた。落ち着いたベージュ系のブラジャーに包まれた胸乳は、それでも肌の半分ほどが露出している。
(うわあっ、田山先輩って、見かけよりもおっぱい大きい! 着やせするタイプなんだぁ……)
濡れたような光沢を放つ乳白色が、眩ゆいくらい艶かしい。けれど、至福の時間はそれほど長くは続かない。綾香が身体を起こすと、それきり胸元は隠されてしまった。それでも、ブラウスを張り詰めさせている稜線は、十分すぎるほど魅力的で、どうしてもそこから目が離せない。
「あの頃も、何かっていうとお茶ばかりしていたわね」
「女性陣が多かったせいか、よくお茶しましたね。放送室に、ポットまで持ち込んで」
「あれは代々の先輩から受け継いだ、我が部の伝統です」
またしても顔を見合わせて、ひとしきり笑いあった。
「あら、いけない。肝心のシナモンを忘れちゃった」
「いいですよ。先輩。これで十分です」
「そう言わずに、本当にパンプキンパイと合うんだから……」
いそいそとキッチンスペースに取って返す綾香。目で追ってばかりいると、不審に思われると気がつき、目の前の砂糖壷からひとさじすくって紅茶に入れた。
「きゃっ、いやあぁ!!」
くるくると紅茶をかき回していると、唐突に悲鳴があがった。
「いやあぁん……」
何事が起きたのかと、あわてて駆け寄った洋介に、涙目になった綾香が腕の中に飛び込んできた。ふんわりと柔らかい女体にどぎまぎしていると、綾香は洋介の背後へと回り込んですがりついた。
「なっ、何?」
ふるんとやわらかい物体が背中にあたるのをいやが上にも意識しながら、洋介は及び腰でキッチンの内側へにじり寄った。
想像していた以上に肉感的な綾香にすがりつかれ、動揺気味の洋介は、心臓のドキドキが彼女に届いてしまいそうで気が気ではない。
「ううっ……」
怯えている綾香を背にしたまま、恐るおそるキッチンを覗いたが、不審な点は見当たらない。
「ねえ、何があったんです?」
洋介の腋の下から細く白い指が、フローリングの床を指し示した。目で追うと、黒光りした十センチにもならんとする甲虫が一匹、我が物顔で闊歩している。
「なんだ、ゴキブリかあ……」
思わず拍子抜けの声を漏らす。
「だってぇ、ゴキブリ大嫌いなの……。この部屋に出たことなんてなかったのにぃ」
拗ねたような涙声が、背後からした。
凛とした先輩キャラが、一気に崩れ、手弱女ぶりを発揮している。そのギャップが、たまらなく可愛い。「僕が守ってあげなければ!」と思わせるような、男の本能を刺激するおんなっぷりなのだ。