心地よい風は、間近に迫る夏を思わせてくれる。
いつもであれば、ぽかぽか陽気に自然と心も浮き立つはずだったが、今の洋介はそんな気分ではなかった。
心の中を占めているのは、よそよそしい態度を見せる綾香のことだった。
今朝も出がけに、ごみ袋を握りしめた綾香と出くわしたが、「おはようございます」との挨拶にも応えてもらえずにいた。
いつだったか、まなみが「お隣の奥さんと出くわしてしまった」と漏らした相手は、どうやら綾香だったらしい。洋介との情事を終えたばかりのまなみの様子に、それと悟られたのかもしれない。菜穂との関係にも、もしかしたら気がついているのかもと思える綾香だったから、余計に軽蔑されてしまったようだ。
よそよそしい態度はおろか、ぷいっと無視されてしまうのには、ほとほと堪えた。
多感な高校生の頃の気分を、思い出させる綾香だけに、寂しさと胸の疼きを感じずにはいられない。
(せめて、もう一度だけでも、あの優しい笑顔を見せてもらいたい。それがダメなら、挨拶だけでも……)
そう思い、隣の物音に聞き耳を立て、綾香が外に出るのにタイミングを合わせて、洋介も玄関口を出るのだが、いくら明るく挨拶しても取りあってもらえない。そんな涙ぐましい努力を続けるエネルギーも、そろそろ底を尽きかけている。
「はあ、どうしたら、挨拶くらい交わせるようになるだろう……」
名案もなく、とぼとぼと肩を落として家路をたどる洋介だった。
マンションの前にたどり着くと、部屋のあたりを見上げるのが、最近の日課となりつつある。もちろん、自分の部屋ではなく、綾香の部屋を見上げるのだ。
「あっ、先輩だ……」
それが遠く離れた七階であろうとも、彼女を見間違えるはずがない。
ベランダで甲斐甲斐しく動き回るその姿を見つけただけで、洋介の心臓は早鐘を打ちはじめるのだ。
どうやら綾香は、洗濯物を取り込んでいるらしい。
そういえば、またぞろ下着泥棒が活躍していることを、噂話が大好きな菜緒や、まなみからまで聞かされていた。もっとも、彼女たちが直接被害に遭った訳ではない。さすがの下着泥棒も、七階や八階のベランダまでは、手が出ないのだろう。
「ああ、だけど先輩の下着だったら、僕も泥棒してでも欲しい……」
その願いが聞き届けられた訳でもないだろうが、綾香の立ち働くベランダのあたりからひらひらと一枚の布切れが舞い上がった。
「え、ウソっ、念力?」
バカな考えが頭をかすめたが、そんなはずはない。悪戯な一陣の風が、偶然、綾香の掌から洗濯物を奪い取ったのだろう。
あわてたように、綾香がベランダに取りつき布切れの行方を眼で追っている。
もちろん、洋介も天の贈り物を受け取ろうと、ひらひらと風に流されるその布切れを追いかけた。それはまるで、天使が地上に舞い降りるかのように、優雅で気まぐれな動きだ。
水色の布切れが、綾香のパンティだと知れたのは、その薄布を両手で捕獲する数秒前だった。
「ああ、パンティだ。これを先輩が穿いているんだ!」
肌触りのよいコットン生地が、彼女の下着と思うだけで、思春期の少年のように興奮してしまう。思わず頬ずりしかけて、その衝動を必死で抑えた。ベランダから薄布の落とし主が、事の成り行きを見ているはずなのだ。
再び綾香の部屋のあたりを見上げると、彼女もパンティを拾った相手が洋介と気づいたような素振りを見せた。どうリアクションしてよいのか、困っている風なのだ。
「あはは、先輩、頬を赤らめているんだろうなあ」
色っぽいその表情を想像して、思わずニンマリしてしまう洋介。さっきまでの沈んだ気持ちもどこへやら、パンティを右手に高く掲げ、ひらひらと彼女に振ってみせた。
「あなた、下着泥棒ね!」
突然、背後から険のある声がかけられた。
振り向くと、そこには見知らぬ女性の姿があった。
気品溢れるセレブな奥様。美人揃いの住人のお蔭で、ここがハーレムマンションと呼ばれていることが、彼女の美貌からも頷ける。
「それ、女性もののショーツよね。やっぱり下着泥棒!」
パンティをショーツと呼ぶあたりが、いかにもお上品なセレブらしい。
洋介は、高く掲げた水色の薄布を、あわてて下ろした。確かに、この状況では、下着泥棒や変態と勘違いされてもおかしくない。
「こ、これは違います。空から降ってきたもので、ほらあそこの女性が落とした……」
しかし、指で示した場所には、そこにいるはずの綾香の姿はなかった。
「あ、あれ? 先輩、どこに行っちゃったんだろう?」
「空から落ちてきたなんて、そんな言い訳通るはずがないでしょう! 警察を呼びますよ」
ハンドバッグから携帯を取り出し、110番しようとするのを洋介はどう止めればよいか判らなかった。力尽くで携帯を取り上げることも考えたが、菜緒と出会った時、似たようなシチュエーションで、余計に誤解を与えた経験が洋介を躊躇わせた。
「待ってください。その下着、私のです。風にさらわれて……。その人は拾ってくれただけで、何も悪くありません」
危ういところで止めてくれたのは、駆けつけた綾香だった。
「あらそうだったの。人騒がせねえ」
自分の間違いを認めようとせずに、そそくさと女性はその場を立ち去った。