不貞妻 詩織 視線を感じて、私……

『行ってらっしゃい、あなた』

『ん。今日は早めに帰るようにするから』

今朝交わしたやり取りを思い出し、そわそわと旦那の帰宅を待ちわびる時間が堪らなく愛おしい。舌鼓を打ってくれる夫の笑顔を思えば、手間は苦になるどころか、心躍る時間へと変容した。

特に大きな変化があるわけでもない。日々同じ事の繰り返しである点にも、変わりはない。それでも悪夢を経たからこそ、しみじみと思う。

(私には、やっぱりこういうのが合ってる。幸太郎さんと二人。平凡だけれど、温かな気持ちになれる時間を過ごす事。それが、何よりの幸せなのよ)

この三か月間、夫に気取られぬよう平静を装いながらも、内心不安に駆られる日々が続いた。ユウゴに陵辱されたあの夜、バッグにしまっておいたはずの携帯電話がカーディガンの下にあった事。その違和感を念頭に「眠っている間にユウゴがバッグから取り出して、個人情報を盗み見たのでは」との懸念が払拭できなかったからだ。

けれど実際には、三か月間一度として陵辱者からの連絡はない。取り越し苦労だった、悪夢はもう終わったんだ、と思えるようになった。

(もう、あんな忌まわしい記憶を思い出す必要もないの)

身を穢された事実は消えず、未だに夫への負い目はあるにせよ、それも幸せな日々が薄め、いつか消してくれるはず。そうなってほしいと願っていた。

一人きりで過ごす夕暮れ時。懸想に耽る若妻の意識を現実へと引き戻すべく、鍋の蓋がカタカタ鳴る。煮汁が噴いた鍋を炙る火を、スイッチをひねって弱め、落ち着けた後。

「あと、二時間ちょっと……」

壁掛け時計の示す時刻を見つめて、ため息一つ。

夫の定時の帰宅を待ちわびる若妻のそわつきは収まらなかった。

「ただいま」

毎度の言葉と共に帰宅した夫に、やはり毎度の調子で穏やかに告げる。

「お帰りなさい、あなた」

きっと仕事が長引いてしまって、それでも目一杯急いで戻ってきてくれたのだと思うから。約束した時刻から二時間半遅れで帰宅した夫を責める気持ちは微塵もない。

ただ、これからの二人きりの時間。一日の出来事を報告し合いながら食す夕餉と、その後の寝室での触れ合い。共に短時間ながら、確かな幸せを感じられる時への期待に胸躍らせていた。

「──お邪魔しますよぉ」

陰湿な声の主が、夫の後ろから顔を覗かせるまでは。

「今、うちの社と取引していただいてる会社の営業部長さんなんだ。帰りにばったり会って、飲みに誘っていただいてね」

「意気投合して、盛り上がってしまって。もっと飲みたいなと話してたんだけれども、竹谷君が家を気にしてもいるようだったんで、だったら君の家で一緒に飲もうじゃないか、という話になりまして。いやぁ、突然押しかけてしまって、申し訳ない」

白々しく、上機嫌に弁舌振るう小太りの男。あの同窓会の夜とは別の、けれど同様に上物のスーツを纏いネクタイを締め、紙袋を一つ提げた幹本ユウゴがそこにいた。

(──どう、して!?)

三か月間ずっと音沙汰なかったのに、今頃になってどうして。それも夫を伴って、夫婦の牙城である家の中に上がり込まんとするとは。

(また何か、企んでいるの……? 終わったはずじゃ、なかったの!?)

次々浮かぶ疑問と疑惑に思考が追いつかず、呆然と立ち尽くす妻。それを見て、事情を知らぬ夫が焦りの色を見せた。

「詩織っ。挨拶。……あまり家に人を連れて来た事がないもので、申し訳ありません部長。家内の、詩織です」

サラリーマンらしい態度を堅持する夫が紹介を済ませると、応じるユウゴの眼鏡越しの眼が──また、ねっとり。エプロン越しの胸の膨らみへと舐りつく。

「いやいや、そう畏まらんでください、歳も近いんだし、もっと砕けた調子でいきましょう。……こんばんは、奥さん。上がっても、よろしいですか?」

慇懃無礼な態度で陵辱者が告げ、もちろん、といつもの爽やかな笑顔で応じた夫が、妻を穢した相手を、そうとは知らずに招き入れた。

(──どうして。どうして、私にだけ……)

悪夢はいつも前触れなく襲来する。嘆き、焦れて、悔いてみたところで、現実は覆らない。

「詩織。まずはビールを頼む」

ユウゴを伴い、座卓を設えたリビングへと向かう夫が、まだ玄関口でもたつく妻を振り返り、いつもの調子で行動を促した。その彼の何も知らぬほろ酔い顔が、この時ばかりは憎らしく感じられて、けれど何よりも先に不安と恐怖が渦を巻く。

侵略者たるユウゴから、目を離してはいけない。夫のそばを離れるのも、危険だ。

「い、今行きます……」

怯えが混じりそうになる声を必死に繕った結果、かぼそい響きとなった妻の言葉は、すでに部屋に入ってしまった夫の耳に届かなかった。

「詩織の携帯を見て、旦那の名前と自宅住所がわかってたからね。……調べて驚いたよ。まさかうちと取引してる最中の会社の社員だったとは。やっぱり運命なんだな」

ビール二杯を呷っただけで少しも酔っていないくせに、陶酔口調で紡ぎ終えたユウゴ。その憎たらしい醜顔が、正面席で座卓に上体をもたせ眠る幸太郎から、その脇に寄り添い屈む詩織へと視線を移し、くっく、と小馬鹿にしたような忍び笑いまで漏らす。

詩織は夫を出迎えた時同様の、前開きのボタン付き長袖シャツの上にエプロンを着け、足首丈のロングスカートを穿いた姿で、沈鬱な面持ちを隠す余裕もなく、ただ俯いていた。