不貞妻 詩織 視線を感じて、私……

本日選択したのは、昭和初期の俳人が記した句集。

『んー……すまん。俺、あんまりそういうのはわからなくて』

付き合い始めた頃に夫に勧めたが、申し訳なさげに断られた事を思い出す。当時から身体を動かしている方が合ってると言って憚らない、根っからアウトドア気質な人だった。

商社マンとして忙しい今現在でも、彼が読む本といえば実用書ぐらいなもので、やはり活動的に過ごしている時間が多い。

「ふふっ」

合間合間に夫との思い出を挟みつつ、今日の一冊を読み耽った詩織が充実した表情で壁にかかった時計に目をやった。針の指し示す時刻は、午後三時。まだ少し、夕食の買い出しに行くには早い時間帯だ。

(幸太郎さんは、午後からも頑張って働いてるのよね。……お弁当、今日のおかずは喜んでくれたかしら)

好き嫌いのない人なだけに、いつ尋ねても「美味かった」の一点張りなのが少々張り合いなく感じる。が、それを不満というのは贅沢だ。

『会社の奴が、毎日手の込んだ愛妻弁当、羨ましいです、なんて言ってたよ』

照れ笑いを浮かべつつも誇らしげに、嬉しさを滲ませてそんな報告をしてくれた夫。その笑顔こそが主婦としての日々の働きの、何よりの褒賞であり動力源だ。彼に愛されている実感を得られる日々に、不満などない。

幼少期から夢想癖があり、本好きの大人しく目立たない少女だった自分と、スポーツ万能で常に人の輪の中心にいた夫。

趣味も性格も好対照なのに「一目惚れして」と彼の方から声をかけてきてくれた。彼のアウトドア趣味に付き合って訪れた自然豊かな山、川、レジャー施設。どれも詩織単独では絶対に赴かない場所であり、新鮮な経験に彩られた大学生活そのものが、改めて振り返ると煌めきに満ちていたように思う。

「……思い出ばかりに浸ってちゃ、いけないわよね」

冷めてしまった紅茶をシックな木製トレイに戻して、今日に限って思い出巡りをしてしまった理由の一端である、テーブル上の一枚の葉書に改めて目をやった。

同窓会のお知らせ、という一文から始まる裏面を上にして置かれたその葉書には、詩織に高校の同窓会の参加有無を問う内容が記されている。

「高校の頃の同級生、か……」

思い出そうとしてみるも、ほとんど記憶に蘇るものがない。ようやく一つ二つ思い浮かんだ顔も、名前の方がわからない。

ならばと当時の自分を思い返してみる。まだコンタクトではなく、重度の近視を補う厚めの眼鏡を掛けていた、十六から十八の頃の自分。野暮ったいおさげ髪を左右に垂らして、いつも自信なさげに俯き、人目を避けていた。

図書委員の立場を活用し、休み時間はおろか、昼食時も図書室にこもって、本の香りに安堵する日々。部活も文芸部で、部員が少ないのを幸いと、書物の中の世界に没頭してばかりの三年間だった。

思い返すにつけ、我ながら暗く地味な子という以外の表現が見当たらない。

(友達もいなかったし、本当に本だけに没頭しちゃってたから)

当時はそれが幸せに思えていたが、今となっては寂寥感と、しても詮無いと理解していながら若干の後悔を抱いてしまう。

(同窓会なんて。行ってもきっと、話についていけないわ。誰にも覚えてもらってない可能性だって……十分あると思うし)

今よりずっと後ろ向きで、息を潜めて居場所のなさを嘆いていた十六歳当時の劣等感までもが甦り、自然と苦々しい顔つきになってしまう。

高校当時の暗く地味だった自身を恥じるほど、夫と出会えて以降の大学生活が輝かしく際立った。それこそが、高校の同窓会の知らせを受けておきながら、大学の記憶に浸った最大の理由。

(高校の同窓会になんて、行く理由がないわ)

嫌な記憶の蓋を進んで開ける意義などない。幸せな今を噛み締め、精一杯主婦として努める。そうして夫の喜ぶ顔を見る事の方が、ずっと大事だ。

深呼吸をし、気持ちを落ち着けて前を向いた詩織の表情は、生来の物憂げな雰囲気を保持しつつ、決意表明するように目元と唇が引き締まっていた。

改めて見た時計の針が指す時刻は四時、二十分前。まだ早いが、気分転換も兼ねて買い物に出てしまおう。

「……さむ」

正午同様の照りつけを警戒し、セーターからシャツに着替えて外に出た若妻の身に、冬の寒さが染み堪えた。

夜。遅くに帰宅してきた夫を待って共にした夕食の片付けも終わり、入浴も終えた詩織が寝室に足を向けたのは、十一時を少し回った頃だった。

特に特徴のないパジャマの下には、夫好みの白い無地下着。水入らずで過ごした夕餉とはまた別の、男女の時間への期待は多分に抱き、寝室の戸を開ける。

「……おう、お帰り」

先に入浴を終えていた夫は、昨夜同様、タンクトップにハーフパンツという彼なりの寝巻姿で夫婦共同のダブルベッドに仰向けとなり、眠る準備を整えていた。

ここ半年ほど、毎晩見慣れた光景。仕事で疲れているのだろうと推察するものの、実際のところはわからない。

(私に魅力を感じなくなった? それとも、こんなにも頻繁に欲しくなる私の方が、おかしいのかな……。結婚して六年も経てばみんな、落ち着いちゃうものなのかも)

仕事の話は家ではしない。新婚時に交わした約束と、伴侶以外に相談のできる相手のない事実が相まって、若妻の懸念払拭の妨げとなっていた。