──当時もっとユウゴとこういう話をしておけばよかった。そうすれば孤独を覚える事もなかった。また意味のない「もしも」を練った己を恥じて、手にしたカクテルを一息に呷る。
「……美味しい」
日頃アルコールの類を一滴も口にしない詩織の身に、酔いの火照りが染む。ジュースに近い甘みのお蔭で、確かに飲みやすい。
元々ビールしか飲まなかったのは、夫がビール党だったから。二十になってすぐ彼に教えられた苦い味と喉ごしに慣れ親しみ、以降も飲酒時は基本的に夫同伴だったため、他の酒を注文するという機会自体が訪れず、この歳に至った。
「良かった。お代わりならいくらでも取ってきてあげるから、飲んで飲んで」
「あ。う、うん……」
若干強引に勧められている気もしたが、そのユウゴの杯もぐんぐん嵩を下げ、もうじき飲み終える状況となっている。また彼に気遣わせてはと思い、押しの強さにも呑まれて詩織は杯を傾けた。その喉に、甘い味わいと、酔いの熱がトロリ、流れ込む。
ユウゴは「きつくない」と言っていたが、ビールよりも酔いの回りが早い気がした。
「それでさ。覚えてる? ボクらが三年の時、部室に……」
カラカラと、杯を回しながらユウゴが語る。
「うん……あった、ね。そんな事……」
眩み始めた意識を支えようと頭を押さえた詩織の様子を見て、真正面の彼の唇が歪んだ、ようにも見えたのだが──。
徐々に判断力を喪失する詩織には、じき、それが現実だったのか、気のせいなのか、夢の出来事の一部なのか、判然としなくなった。
2
「……は、ぁ」
ユウゴの語る内容に共感し、時に話題を振られて応じる楽しさに引き込まれた結果。自然と酒も進み、カクテル四杯を飲みきった詩織は、女子トイレの個室に入り、洋式便座に腰を下ろしていた。
夫の付き添いがあった過去の酒席では、ビール二杯が限度だった。それ以上飲めないというのではなく、妻が人前で酔う事態を許さない夫の制止があったから。ゆえに二十八にもなって自身が許容できる酒の量さえ知らぬまま。
今宵初めて、眩み、体感の減退、身の火照りといった酔いの兆候を経験している。意識がぼやけるのは不便ではあったが、不快ではない。周りの目を意識して気を張っていたのがほぐれゆく感覚に、むしろ心地よさを覚えすらした。
(来て、良かった)
自分にだって語れる高校時代の思い出があったと気づかせてくれたユウゴへの感謝が胸を衝く。ただただ忌避していた当時への回想を苦に思わなくなった事で、心置きなく前を向いて、明日からの日常を歩める気がしていた。
「ん……ふ……ぅっ」
腹部に力を入れてひりだした尿液が、一滴、二滴。粒となって落ち、便器の水面を波打たせる。トイレ内に五つある内の一番手前の個室に、漏れる直前で駆け込んだのが、五分ほど前。さすがに出尽くした膀胱も軽くなり、尿意自体も消失した。
一方で、アルコールを排泄した事で幾分かは和らいだものの、まだ頭の眩みも、身体全体に行き渡った体感の鈍りも解消されてはいない。
膝上に置いたバッグから取り出した携帯電話のパネルに目をやると、表示された時刻は午後九時を回っていた。
「……帰らなきゃ」
待ち合わせて帰るのは今の調子では無理だし、このまま酩酊状態で帰宅すれば夫の叱責を受ける可能性が高い。さりとて酔いを冷ますため時間を潰すより、とにかく安らげる自宅へ戻りたいとの気持ちが強く、ふらつく足に行動を促した。
席に待たせているユウゴに挨拶だけして、帰宅しよう。楽しい時間との別れを決意した詩織が便座から腰を上げた、ちょうどそのタイミングで、戸の向こうに複数の人の気配がやって来る。
「でさ、さっきの話だけど」
「幹本の事?」
「そそ。あのデブ。良いスーツ着て、羽振りよさげだったでしょ?」
女性二人、いや三人連れ。彼女達の口から出た名字に、酔い蕩けた眼が見開いた。
(幹本……って、幹本ユウゴ君、よね?)
他に同じ名字の者がいるのかもしれないが、体型と服装共に特徴が一致するとあっては、彼である可能性が高いように感じる。
防音が疎かな作りなのか、扉向こうの声は酔いの回った詩織にも鮮明に伝わった。であれば、こちらの声も同じように届くという事だ。意識して声はもちろん息も潜めた詩織が聞き耳を立てる中で、三人連れが話を続ける。
「何でもあいつが高校卒業した後に父親が事業で成功して、今は社長さんなんだって。あいつ自身も重役になってるらしいよ。男子達から聞いた」
「マジ? はぁ~。昔と違ってビクビクしてないのも、そこら辺が理由なんかね」
「でもさ。そんだけ金持ってたら、女遊びとか派手にやらかしてそうだよねぇ。ほら、あいつ、普通にしてたらモテなさそうだし。その分お金で釣って、みたいな」
「ああ、うん。そういう感じあるよね」
「なんか女見る時の目がねっとりしててキモいんだよね、あの人」
「いくら金あるって言っても、あたしはちょっと御免だなぁ」
好き放題に話して、化粧直しを終えた三人連れがトイレから去る。
全て聞き終えた詩織は、まだ便座に腰を下ろしたまま。憤懣やるかたない想いを、唇を食い締める事で必死に堪えていた。
(確証もないのに、よくあれだけ人の事を悪く言えるものね……!)