不貞妻 詩織 視線を感じて、私……

一点の曇りもない爽やかな笑顔で送り出す夫は、いつもと何ら変化がなかった。

第二章 裏切り始め

三十人強の大所帯で賑わう宴席。ホテルの一室を貸し切りにして行われた同窓会の会場で、詩織は隅の席に腰を下ろし、浮かない面持ちで周囲の喧騒を眺めていた。

『え。マジであのしのみや? 眼鏡かけてないからわかんなかった』

『凄い綺麗になったね~』

一時間ほど前。開宴直前に顔を見せた詩織を見て、列席者は一様に驚き、瞬く間に周囲に人が集まった。

結婚している事。夫はエリート街道を歩み、根っから真面目で常に人の輪の中心に居る人物で、スポーツマンでもある事。夫婦仲が良好な事。一戸建てに住んでいる事。専業主婦として、何不自由のない生活を送れている事。

話すにつけ同性からは羨望の声が上がり、男性陣からは「惚気話かよ」などと冗談めかした囃しが飛ぶ。最初は旧姓の「篠宮」「篠宮さん」だったのが、結婚の事実を告げた後に「竹谷さん」へと呼び名が変わり、夫が選んでくれたコーディネイトも好評で、詩織自身の均整の取れたプロポーションも称賛された。

『高校の頃から胸は大きい方だったもんね。実は、体育の着替えの時とか結構羨ましく見てたのよ。ほら、あたしAカップだったじゃん?』

当時のDカップから、さらにワンカップ成育したバストに、同性の羨む目が注ぎ、

『ああ。隠れ巨乳じゃね、つって男子の間でもいっとき話題になってたなぁ』

優越感に浸っていたせいで、異性からの好色な目線もさほど気にならなかった。

『しっかし髪型変えて眼鏡取るだけで、こうも見違えるかね。高校の時に気づいてたら、俺絶対告ってたのになぁ』

『はは、清純派が好みだったもんなお前!』

清純派。そう評されて真っ先に、夫の顔が浮かぶ。彼に見初められ、彼の趣味通りに磨かれたのが今現在の自分だ。だから夫が褒められたも同然で、何よりその事が詩織の自尊心をくすぐる。

振り返れば、この時が優越のピークだったと思う。

『このウエストのくびれとか羨ましいなぁ。マジで同い年? って思うよね~』

太り気味の同性からの、冗談めかしてはいるが声の響きでバレバレの嫉妬を浴びた。

『見ろよ。胸もいいけど……あのケツ。ドレス越しにもむっちりぶりがすげぇわかる』

『ば、馬鹿。声! ……ハハ、ごめんね竹谷さん。こいつもう酔ったみたいでさ』

ひそひそと話しているつもりが、早々に酔ったために声量を間違えた男性の下卑た発言が届き、それまでの昂揚感が嘘のように嫌な気分にさせられた。

周囲の者が慌てて諌めるも、後の祭りだ。

『おバカっ。人妻に何てこと言ってんの。ほら謝って!』

『あてっ。あぁ……っと。ごめんなさいっ』

『ハハハ、ざまぁ』

高校当時もクラスのまとめ役だった女性が、暴言男性を叱り、軽く小突く。揺さぶられた男性はよろけながらも、ぺこり。まるで子供みたいにお辞儀して謝った。それで場の空気は再度和やかに戻り、笑い話に花が咲く。

『ほら、竹谷さんも、飲も飲も』

『それじゃ……乾杯!』

気を利かせた女性陣が集まって、ビールを注いでくれ、瞬く間に酒宴の熱が上がっていったが──ただ一人。詩織だけが、その熱に乗りきれなかった。

(結局は、見せ物じゃない)

薄着になった事で際立って異性の目を惹くプロポーションへの度の過ぎた暴言が、周りが思う以上に暗い影を落とした、その結果。昂揚が鳴りを潜めるのと同時に生来の内気が顔を覗かせる。気遣って集まる同窓の面々に、ろくに応対できぬまま俯いたのもまずかったと、落ち着いてきた今にして思う。

結局。詩織の話題は一過性の盛り上がりのみ残して、消失した。

当時の思い出話に盛り上がる会話の中で、相槌しか打てない詩織に話しかける人物は、次第に目減りし、開宴から一時間経過した今は単身、暇を持て余している。

「でさ、あの時は……」

「うんうん。だよね~。それでアイツが……」

「あったあった! そんな事。ハハハハハッ」

詩織にとっては一つも懐かしくない話で盛り上がる人々。ぽつんと取り残された気分で席に座る状況は、高校当時と変わらない。

「お子さん、何歳?」「わ。こっち見て笑った。可愛い~」

隣の円卓から、見覚えのない女性達の会話が漏れ伝わる。

「でも、手がかかるし大変なのよ、本当は一人だけでいいかなって、旦那と話してたんだけどね。まぁデキちゃったもんはしょうがないし」

小さな男の子をあやす傍ら、大きく膨らんだ自身の腹部をもう一方の手でさする同い年の──やはり詩織の記憶には残っていない女性。口振りとは裏腹に、愛しげに腹部と長男の頭を撫でる彼女の方がよっぽど幸せであるように思えて、余計先刻の「見せ物となった自分」を惨めに感じた。

それもこれも、居場所のなさを覚えているがため。高校当時の卑屈な心持ちが再来しているせいだ。結論付けたところで変わらぬ現実から、せめて気を逸らすべくビールの入った杯を呷る。

お喋りに熱中しているのと、酔って注意力散漫になっているのも手伝って、「話の合わない元クラスメイト」を気にかける者は、もういない。

出がけの昂揚が嘘のように、苦い感情が、酒の熱と一緒になって詩織の身に蔓延していた。きっと、こっそり場を辞しても誰も気づかない。