不貞妻 詩織 視線を感じて、私……

──帰ろう。優しく頼もしい夫の待つ家に、今すぐ。

意思を固めて、詩織が席を立った矢先。

「……篠宮、じゃなかった竹谷さん。飲んでる?」

小太りな、中背の男性が歩み寄り、声をかけてくる。その彼は、眼鏡をかけた風貌こそ冴えないものの、上等のスーツにネクタイを締めて堂々としているために、年齢以上の風格が備わっているように見受けられた。

「え……あ、はい。でも、ちょっと酔ってしまって」

この場にいるという事は、同い年の同窓生に他ならないのだが、気後れして、敬語じみた口振りとなってしまう。その事を咎めるでも、一笑に伏しもせず。

「ボクの事、覚えてないかな? ほら、文芸部で一緒だった……」

詩織が気恥ずかしさや遠慮を自覚するのに先んじて、正面席に座った彼が尋ねてきた。

「えっ……みきもと、君?」

記憶を手繰り寄せて思い浮かんだ人物の名を口にすれば、真向かいに立った小太りのにこやか顔が頷いて、肯定の意を示す。

幹本ユウゴ。高校三年間、同じ文芸部に所属した異性のクラスメイト。二年と三年の時はクラスも同じで、二年間一緒に図書委員も務めた。

と言っても、当時はほとんど言葉を交わさなかったと記憶している。共に内気な性分だったし、一緒に部室や図書室に居ても、互いの領分に踏み入らない空気が自然とできていた。異性として意識する機会も一切なく、そもそも話す糸口を探ろうと思う対象ではなかった。

ゆえに、高卒以来の再会にも特段の感慨はなく。

「じゃあ、乾杯」

「う、うん。じゃあ」

敬語こそ取れたものの、ぎこちなさが多分に残った状態で、差し出されたユウゴの杯に遅れて杯を突き合わせ、乾杯する。記憶の中の彼にない積極性に戸惑っていると、元々細い目をにこりと歪め、ユウゴの方から話題を振ってくれた。

「今でも時々、思い出すよ。あの部室の、薄暗さと、こもった匂い」

彼の発した第一声は、詩織が高校当時抱いていた部室の印象と全く同一のものだ。今宵初めて得られた共感が、居場所のなさを嘆いていた心根にジンと染む。

「……っ、わ、私も。うん。……懐かしい」

食いつき気味に応じてしまった事を恥じて俯いた詩織を見ても、彼は吹き出したりせず、ただしみじみと思い出語りを続ける。その気遣いのいらなさが、強張っていた詩織の緊張を一つずつほぐし取っていった。

「部室で読書する時って、よっぽど寒い時期以外は、いつもカーテン全開で、窓も隙間風が入る程度に開けてたじゃない? エアコンなんてなかったから」

ユウゴはそこまで言って、ちらと詩織に目をやり、続きを待つように口を噤む。言い出したくて、でも言い出せずに遠慮していた詩織にしてみれば、まさに渡りに船。浮き立つ気持ちのままに、同じ時間を共有していればこそ導ける正答を口にした。

「……夏の暑い日は、大変だったよね」

「ボクなんて今よりだいぶ太ってたからなぁ。汗だくで、余計暑苦しい空気を醸し出しちゃってたよね。ごめん」

そもそも他人の匂いに気を留めてすらいなかった。むしろ、振り返ってみて今更「当時の私は自身の制服の汗ばみとか、汗の匂いだとかを気にしなさすぎた」と、自らの無配慮を恥じたくらいだ。

「ううん。全然気にならなかったよ。……私の方こそ無頓着だったかも。不快な思いさせてたら、ごめんなさい」

「わ。そんな畏まらないで。ほら、飲もう。で、楽しい思い出をもっと語ろうよ」

かえって気遣わせてしまった。つくづく自分は人付き合いが下手だ。自虐する詩織の様子を見て取ったユウゴが、不意に席を立った。そして、驚く詩織を残していずこかへ歩み去ってしまう。

「あ……っ」

卑屈になる事で辟易させてしまったのだろうか。折角の楽しい時間をふいにしてしまった。一人残されて後悔する詩織の前に、さほどの間も置かず二杯のカクテルを手にした彼が戻ってくる。

「これ、そんなにアルコールきつくないし、甘めだから。ビールよりは竹谷さんの口に合うかなと思って」

高校時代は、現在と比べて二十キロ以上は肥えており、ボサボサの髪で、厚い眼鏡をかけ、お世辞にも整っていると言い難い容姿をいつも俯かせていた彼。根暗で、自分からは誰とも話さない、他人からもほぼ見向きもされない存在だった彼が、今、見違えるように大人の男になっている。同類と勝手に思っていた彼に置いていかれた気がしてまた俯きかけた詩織だったが──。

「窓から夕陽が差し込む時間帯が好きだったなぁ。部室が茜色にライトアップされたみたいで」

お構いなしにユウゴが語りを再開させると、また自然に惹き込まれてゆく。

「ほ、本の虫干しを頼まれた時とか。大変だったよね」

「普段は部室に来もしない顧問のとう先生が、急に言い出したんだよね。部屋が本臭いとか言って」

互いの記憶と認識を摺り合わせるように、交互に語らう。想いを共有できる喜びを、夫の幸太郎以外と味わったのは、何年ぶりだろう。部室の印象同様に薄暗く感じていた高校時代そのものに、ぱぁっと光が差し込んだ気さえした。

「年がら年中室内にこもってるボクらを太陽の下に出すとか。そもそも、この匂いがいいのにって、思ってたけど、言い出せなかったなぁ」

「私も……同じ事思ってた。……運動部の人達が部活してるから、何だこいつらみたいな目で見られるし、嫌だなぁ。早く続き読みたいのに……って」