不貞妻 詩織 視線を感じて、私……

「……さっきから顔も赤いし息も熱いな。吐き気もあるんなら、風邪かもな」

「……う、ン……」

帰路を急ぐ中。車中後部座席で寄り添った夫の肩は逞しく、掛けられる言葉に滲む優しさにも気づいていたけれど──。身の内に溜まった渇望を押しとどめるには及ばなかった。

「じゃあ、俺また幹本部長と待ち合わせたホテルに戻るから。……具合がどうしても悪いようなら、病院へ行くんだぞ」

自宅へ帰りつくなり、玄関先でそう告げた幸太郎が、待たせてあるタクシーに乗り込もうと踵を返す。

仕事中の身なのだから当たり前の行動。大事な商談へ遅れまいとする中で、気遣いの言葉をかけてくれた。それだけで十分と、以前なら思えたはずだった。

けれど、今は。今だけは、我儘と理解しつつも傍に居て欲しい。

安息の地である自宅に帰り付いた安堵と、夫が背を向けた途端に急膨張した不安と恐怖。諸々混然一体となって細身の内から溢れ出す。

結局、ひとりでに動きだした身体を止める間もなく、詩織は去ろうとする夫の背に抱きつき、引き留めてしまった。

「……? どうした、まだ何か」

「……お願い……」

行かないで、と続くはずの言葉が、夫の困り顔を見た途端に喉元に追い返される。

背に顔を摺りつけるばかりで何も話さぬ妻を、夫は体調不良ゆえの不安を訴えていると解釈したようだった。

「……晩は早く帰るようにするから。な?」

今日の商談の重要性。ユウゴから直接指名を受けた身で、今になって代役を立てるわけにもゆかぬ事。だからもう行かなきゃ、と続けて幸太郎がそっと身を離す。

珍しく困った顔をした彼が、妻への気遣いと仕事への責任感の板挟みとなっている。

(……して、欲しいの。今すぐ、あなたのおちんちんであの男……幹本君の痕跡を消して、忘れさせて欲しいの!)

理解できてしまったがゆえに、淫らで身勝手な欲求を面と向かってぶつける事ができなかった。夫の前ではどうしても全てを曝けだせない。

「なんだか今日はらしくないな」

離れ際。ぼそりと彼の口からこぼれた言葉が、一層妻の寂寥と不安を煽る。

(私らしさ、って……何?)

押し殺した性欲の渦巻に苛まれながら、考える。

家を預かる事に喜びを覚える専業主婦。

化粧を好まず、目立つ事も良しとしない、控えめな女。貞淑な妻。

それらは皆、夫の好みに合わせようと努力して作り上げた外面に他ならない。

(じゃあ、本当の。元々の私は……?)

悩む妻を置き去りに、夫を乗せたタクシーが走り去っていった。

夫を愛している。夫と過ごした日々を大切に思っている。そこに嘘偽りはない。

けれど、もし、大切に感じてきた想い出の中の彼が、本当の私を全く見てくれてなかったのだとしたら──。

「そんなはず、ない……」

不貞という負い目があるから邪推が働くのだと、自分を責めてみたところで、生まれてしまった疑念は、暗雲となって若妻の胸の内に垂れ込めたまま。

夫は愛していると言うけれど、それは本当に竹谷詩織──否、篠宮詩織という個性を想ってくれているという事なのだろうか?

返ってくるはずのない問いかけを青空に放ち、詩織は玄関先にへたり込む。見上げた空の晴れやかさとは対照的に、自ずと抱き締めた胸の内では涙雨が降り始め、雨粒が、軋む心根に染み込んでいった。

ユウゴと待ち合わせたホテルへと急ぐタクシーの車中で、改めて幸太郎は別れ際の妻の姿を思い返し、嘆息した。

(こういう時は、勤め人の身が恨めしく思えるな)

風邪程度とはいえ病気の妻を単身家に残す申し訳なさに、歯痒い思いも募りゆく。

(その分、早く帰るって約束したし。良い大人相手に過保護過ぎ……か?)

幸太郎にとって、従順で奥手な性分の詩織は、出会った当初から庇護欲を掻き立てる存在だった。共に人生を歩む相手となった今も、その認識は変わっていない。

幸太郎自身頼られるごとに喜びを覚えてきたし、詩織は文句一つ言わず夫の行動を信じて、ついてきてくれている。

夫の望む夫唱婦随の形に同意して詩織は努力してくれたし、その努力に報いようと幸太郎は精一杯働き、妻が不自由しないよう努めてきた。

ローンを組んでだが二十代の内にマイホームも手に入れた。それも、詩織を幸せにしたいとのモチベーションと、彼女の内助の功があったればこそ成し得たものだ。

人生で最良の相手に巡り会えた。詩織を見つけた大学三年の春に抱いたその想いは正しかったと、共に人生を歩む今、改めて追認する。

「大事にしてやらなきゃ……」

「えっ? 何です?」

「あっ、いえ。すみません。何でもないです」

タクシーの中だという事を忘れて、つい気持ちが声となり、運転手を戸惑わせてしまった。柄にもなく悩んだりするからだ──気恥ずかしさに憑かれて赤面し、誤魔化すように緯線を落とす。

(……詩織)

そうして夫の脳裏に浮かんだ妻の姿は、今日の弱々しいものでなく、平素の控えめで貞淑な、長年思い描いてきた伴侶像そのものな姿だった。

──間近に迫る一大プロジェクトを成功させるべく、まず、今日の商談を立派に務めあげよう。

それが詩織の幸せにも繋がるのだと信じて疑わぬ幸太郎は、意気揚々と顔を上げ、車窓の向こうの流れゆく景色へ目をやった。

四月末日。アスファルトとセメントに囲まれた狭い路地の入り口に、再び立ち尽くす詩織の姿があった。