「……肩。凝ってません?」
二十代の女体が抱いて当然の内なる火照りをひた隠し、目を閉じている夫に問いかける。
「ああ……そうだね、お願いしようかな。気持ち強めで頼む」
うつ伏せに姿勢を変えた幸太郎の様子を見、凝りに凝った肩の触れ心地も確かめて「やっぱり疲れているんだ」──自己解釈し、安堵した。
元々性的に淡白な夫との性行為は、結婚前も、新婚当初も、月に一度あれば良い方だった。ここ数年はさらに頻度が減り、半年ご無沙汰という事も珍しくない。
結婚すると決まった時、今頃の歳には幼稚園児くらいの我が子がそばに居る夢想をした。母親としての喜びを味わえると、思っていた。
(……幸太郎さんと一緒になれただけで、幸せなんだから)
求め過ぎる己の我儘を省みる。彼は妻である自分のためにも身を粉にして働いてくれているのだ。だから同じ事の繰り返しの、退屈な日常だったとしても──。
胸に潜む感情を我儘と断じ、すり潰さなければならない。
「ん……そこ、強く頼む」
「はい。……こう?」
時折彼が向ける情のこもった視線が、愛されている実感を与えてくれるから、他愛のない対話に幸せを覚えられる。それで十分だ。
「そういえば、同窓会」
「えっ?」
不意に、予想外の台詞が夫の口から飛び出た事に、ドキリとした。
「玄関に置いてあったろ。同窓会のお知らせって葉書。行くのかい?」
何にせよ会話の糸口が得られたのなら喜ばしい。
「……行かないと思う」
「どうして。行けばいいじゃない。日がな一日、家の中じゃ気も滅入るだろ。気分転換がてら、行ってきなよ」
肩揉みの心地よさに時折吐息をこぼしつつ、夫が同窓会への参加を勧める。若妻単身で夜に出歩くのを好まぬ夫にしては珍しい。
詩織の抱いた小さな違和感は、続けて幸太郎が紡いだ言葉によって即刻氷解した。
「この頃暗い顔してる事多いからさ。俺がもっと休み取ればいいんだけど、そうもいかないし」
自分こそ疲れているだろうに、気遣ってくれている。嬉しさが募るのと同時に、一旦は押し殺した身の火照りが再来し、堪らず小さく内腿を摺り合わせてしまった。
「そう、ね。ありがとう、あなた」
気乗りしない事に変わりはない。それでも幸太郎の気遣いを無碍にしたくない一心で、応えてしまう。
「じゃあ、十五日。日曜日ですけど、出掛けてきますね、同窓会に顔を出してきます」
「うん、それがいいよ」
彼の柔らかな笑顔が、妻の内に潜む不安を払拭──しきってはくれなかったけれど。
「もう肩はいいよ。君も早くお休み」
「……はい」
寄り添うように潜ったベッドの中の温み。彼の熱。仰向けで眠る彼の息遣いを感じ取り、確かな幸せを感じた。
「お休みなさい、あなた」
「ん、お休み……」
じき、寝つきの良い夫がいびきを掻き始める。彼が深い眠りに落ちたのを確かめてから逞しい腕に身を寄せ、静かに目を閉じた。
瞼裏には相変わらず、幸太郎と過ごした大学時代の思い出が焼きついていた。
3
迎えた、同窓会当日。午後七時の開宴に間に合うよう早目に出立する事にした詩織は、自宅玄関前で見送る幸太郎に向き直った。
「それじゃ、行ってきます。できるだけ早めに帰りますから」
平日常に出社のため見送られる側だった夫と、家を守る役目を負って見送る側にいた妻。いつもとは逆の状況に新鮮味を覚え、自然と詩織の唇に笑みが浮かぶ。
退屈だった日常に変化が訪れた喜びと、染みつくようにじわじわと込み上げる解放感。それらは、詩織の纏う衣服にも表れていた。
基調となるのは、二年前に幸太郎と一緒に大学の同窓会に出るため購入した、黒の膝丈ワンピース。加えて重ね着したカーディガンと、パンティストッキングを穿く事で上下の肌露出を減らした。飾り気のないスリムなバッグを提げて、靴も余所行き用の上質なパンプスを選択。
全体的に控えめに品よくまとめられた装いが、詩織の清楚な雰囲気を際立てる。
「うん、いいね」
いつもはしないナチュラルメイクも施し、特に薄く引かれたベージュリップに夫の視線が注ぐのを感じていた矢先。その彼の褒め言葉を受け、尚の事詩織の心が沸く。
(高校時代は地味だった私が、こんな格好で現れたら……)
見違えたと、言われるだろうか。あるいは、すぐには気づいてもらえないか。夫以外の男性の目を惹くのは本意ではないが、上物の衣服と見違えた風貌に同性からの羨望の視線が注がれるのを想像すると、優悦への期待が湧き起こる。
幸太郎の進言に従って同窓会への出席を決めてよかった。どうせ行くのならと、同じく彼の勧めた一番の勝負服を着た事で、一週間前に抱いていた気乗りのしなさが嘘のように霧散してもいる。やっぱり夫のする事に間違いはないのだと、改めて惚れ直し、沸き立つ胸をそっと己が手で押さえた。
「うん。俺もなるだけ早く済ませて帰ってくるようにするよ」
その夫は、今晩は会社仲間との酒席に出る段取りとなっている。
帰りの時刻が合えば最寄り駅で落ち合って一緒に帰宅するのもいいな、と、昨晩照れ混じりに話していた幸太郎のはにかみ顔を思い出してまた、妻の胸に熱いものが込み上げた。
「それじゃ、行ってきます。あなた」
もう一度告げて背を向けておきながら、名残惜しげに長身の伴侶の顔を仰ぎ見る。慕情に憑かれた視線が夫の唇に行かぬよう努めている妻の煩悶に、気づいているのか、いないのか。