ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

手前勝手な理屈なのは重々承知。その後ろめたさをもってしても、すでに胸内に留めおけぬほど、妄執は膨張してしまっていた。

妄想の暴走を甘露と感ずる己の異常を詰りつつ。智は、先刻密かに交わした藪沼との約束を、反芻していった。

咲美の職場を訪れてから、三日後。智は妄想を現実とするための、新たなステップを踏んだ。

「……きっと、疲れてるんだよ」

夫婦並んで身を横たえた寝室のベッド上。左隣に半裸を寄せる妻の言葉に、項垂れ、消え入りそうな声で「ごめん」と短く応じる。申し訳なさと情けなさを演出した夫を見つめる妻の表情は、一層辛そうに曇った。

「どしたの、もぉ! 智らしくないよ。今日はやめとこ、ね」

愛妻はまず真っ先に夫を想い、叱咤、励まし、労いの言葉を次々とかけてくれる。

けれど先刻、夜の営みに及ぼうと露出した夫の股間で項垂れたままでいる男根を目に留めた一瞬。彼女の瞳は動揺し、明らかな落胆に彩られてもいた。

(咲美にあんな目で見られるなんて……)

夫が夕食後と就寝直前の二度にわたってトイレにこもり、自慰をして精を放っていたなどと、彼女は知る由もないのだから仕方ない。そもそも己で撒いた種ではないか。頭で理解してはいても、胸に溢れる情けなさをどうすることもできなかった。

その一方で、彼女の失望を浴びた瞬間に思わず反骨しかけた肉棒を慌てて手で覆い、さも勃たぬのが恥ずかしくて隠した風を装うのを忘れなかったのだ。

本当は、二度の自慰では抑えるに至らなかった咲美への情愛が湧き溢れ、勃起という証を今も立てたくて堪らない。切々と腰に轟く衝動を振りきるために愛妻の肌から目を逸らしたのに、合わす顔がない風をまた装った。

「……きっと、ぐっすり寝て、疲れを取れば大丈夫だよ」

紡がれる励ましの言葉は、彼女自身に言い聞かせるためのものでもあるのかもしれない。夫の目にそう映るほど、咲美はショックを隠せていない。

愛の営みの一つであるセックスを拒まれたように、感じたのやもしれない。落ちこんでいる愛妻を見るにつけ、急膨張した罪悪感が、智の胸を抉る。

これほど愛しく想える妻を、我が手でさらに罠に嵌めようというのだ。

(僕は、最低の夫だ……)

噴き上がる罪悪感を、禁忌の領域へ今まさに踏みこまんとしている昂揚感が相殺する。その歪さを認識していながら。

「最近、おかしいんだ。ほら、この前、車の中で……しただろ」

おかしい、という部分を強調して語って聞かせ、悩んでいる雰囲気を強く醸した。

「う、うん……」

カーセックスの一部始終、その際夫婦共に激しく盛った事実を思い出し、咲美が赤らめた顔を俯かす。

「ああいう、ちょっと変わった刺激がないとダメになってきてるような……」

「……えぇっ!?」

予想だにしていなかった告白に口を開けて驚きつつも、夫が股間の不調に関連する話をしていると思えばこそ、彼女は真剣な表情での傾聴姿勢を崩さない。

先ほど振り返ったばかりのカーセックスの際の夫(と自分)の昂奮ぶりを思えば、さもありなん──仮に妻がそうした考えに至っているとしたら、万々歳だ。

(まずは『夫は普通の行為では勃起できなくなっている』と認識してもらうこと)

カーセックスも、今回の勃起不全演技も、そのための仕込みだ。

「あの時は、自分でも信じられないくらいに昂奮したんだ。いったいどうしちゃったんだろう」

悩む夫を見やる咲美の表情は、驚きと心配を交互に浮かべている。

「ヤバイよな、ほんと……ごめん」

「も、もうっ、きっと気のせいよ! ストレスか何かだって。気にしない気にしない」

頭を下げた夫を励まそうと無理して微笑み、髪の毛をクシャクシャと撫でてもくれる。いずれも咲美らしい労り方だ。共に紡いできた時間の中で熟知している分、罪悪感という名の刃が智の胸を深々と抉る。

だというのに、一方で冷静に演技を続けられてもいる自分がいる。

(僕は、最低の夫だ)

己の内に在る二面性を空恐ろしく感じ、免罪符になりもしない懺悔を繰り返しながら。智は昨晩の出来事を思い返し始めていた。

先日夕刻。先方の指定に従い訪れた、木造作りの焼き鳥屋。狭さもさることながら、外と内を隔てる扉がなく開け放しの構造であるために、帰路につくサラリーマンの足音がカウンター席に居てもよく聞こえる。そんな、密談を交わすには不適当な場所で、男二人。形ばかりの乾杯をした。

「焼き鳥、ネギマ、つくねに鳥皮になります!」

「いやぁ、うまいっ! 仕事明けの生ビールは最高ですなぁ」

店員がテーブルに置くのも待ちきれなかった様子で、ブツブツだらけの顔が串にかぶりつく。

「さ、どうぞ、ここの鳥は旨いんですよ」

口元にタレをつけたままクシャッと顔を歪めて勧めてくる男──藪沼。セールの日に智の側から持ちかけた誘いに乗って現れたその男は、甘いタレ付きの串を頬張り終えるや。

「いやあ、嬉しい。ご主人とこうして飲めるとは思ってませんでしたよ」

わざわざ顔を寄せておいて、不必要に大きな声を張り上げた。

店内に知り合いがいないのは入店時に確認済みだ。それでも改めて周囲を見渡し、要らぬ注目を浴びていないのを確かめた上で、智は実感する。

(咲美の言った通りだ。デリカシーが欠片も感じられない。こんな男と、僕は)