ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

『今日、桂子が奥さんに会いました。ご指示通り、最初なので挨拶程度ですが、夫婦円満ぶりだけは、思いっきりアピールしておいたとのことです。それと、奥さん、魚の三枚卸は苦手なようですね。コツを簡単に教えたと言ってましたよ。これからもちょくちょく、店に顔を出させます。それでは、また。──藪沼』

一昨日、咲美に内緒で藪沼夫妻と二度目の会食をした際に智から進言した策がさっそく始動したのを知らせる内容である。

藪沼本人のことは毛嫌いしていても、妻の桂子なら咲美の警戒感も薄らぐのではないか。まずは妻同士で親しい間柄になってもらい、そこから徐々に家族ぐるみの仲へと発展させてゆけたなら──。

そう語って聞かせた一昨日、妻を案ずると同時に奸計に嵌まりゆくことを期待し、たしかに智の胸は躍っていた。同時に、胸に突き刺さる想いがしたのも、覚えている。

(……ごめん。咲美。僕は、最低の旦那だ)

夫としての不実を詫びるため、そして、詫びることで束の間罪悪感を和らげんがため。改めて懺悔する。そうしてこの晩も、不実な夫は勃起不全を演じた。

それから一週間が過ぎた晩。咲美が再び桂子の名を口にした。

「藪沼の奥さん、最近よくお店に来るの」

台所で夕食の準備をしながら放たれた言葉を受けて、帰宅したばかりの夫は内心驚かされる。前回に名を挙げた時からさほど時を経たわけでもないのに、妻の表情がまるっきり異なっていたからだ。

「えっ。それで、何か話とかした?」

「向こうから話しかけてくるんだもん、しょうがないじゃん」

口調とは裏腹に、表情は平素通り。ともすれば晴れ晴れしている印象を受けるほどで、少なくとも不機嫌さは見て取れない。

続けて妻が語ったところによると、桂子はほぼ毎日店に通ってきているという。

「どんな話したの?」

「智がいつも言う、どうでもいい話」

夫がきょとんとした顔になったのを見て、咲美が──本当に久しぶりに悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「女ってどうして、どうでもいい話を長々とするんだ、って。智の口癖じゃない」

言われてみれば、よく口にしていたかもしれない。夫が納得したことが嬉しかったのか、より上機嫌に、鼻歌でも歌うように咲美が告げる。

「女はねぇ、どうでもいい話してるときが一番幸せなの。藪沼の奥さんともそういう話してた」

トントンと玉ねぎをみじん切りにしながらも、彼女のお喋りは止まらない。嬉しげな口振りからは、咲美の中で桂子が「忌み嫌う男の妻」というだけの存在でなくなっていることが十二分に読み取れた。

「結構あの奥さん料理詳しいのよ。ぬか漬けのコツとか教わっちゃった」

「へえ、よかったじゃん」

女同士の仲の予想以上の進展ぶりに、驚きを新たにさせられる。

「すごく栄養とかにも気を遣ってるの。びっくりしちゃった」

桂子の料理上手を会話の糸口に、との提案も実行に移されていたわけだ。

「ふぅん」

胸中でせめぎ合う不安と期待をごまかすべく、努めてそっけなく応じた夫を一瞥した後。咲美は、シンクで野菜を洗いながら、なお機嫌のよい口調で言った。

「ま、あんなセクハラ親父でも、一家の主だしね。すごく仲いいみたい」

桂子が言葉と態度で事あるごとに夫婦円満をアピールさせる目論見も、うまくいっている。

この調子で咲美が桂子と親しくなっていけば、次なるステップへ進める日も、そう遠くないのではないか。期待が不安を上回り、押しこみ始めていた。

就寝前。珍しく咲美の方から、ベッドの上で身体を寄せてきた。

「……寝ちゃった?」

「……ん、いや、まだ起きてるよ」

夫の返答を受けての彼女の行動は、いつになく積極的だった。咲美のスベスベした脚に膝小僧をくすぐられ、何とも面映ゆい衝撃が身の内に巡る。ぞくりと背筋を震わせた直後に、暗闇で咲美と目が合った。間髪容れずに腕を絡めてきた彼女の頬は、ほんのりと桜色に染まっている。

(……焦れてるんだ。咲美も……)

夫婦間の性交が途絶えて、もう半月が経とうとしていた。出産の時期を除けば、過去最長の期間となる。

「ごめん、ちょっと……疲れてて……」

本当は、今すぐにでも抱き締めたい。けれどそうすれば、これまでの苦労が水泡に帰してしまうのだ。

本音を押し殺して発した夫の拒絶意思を受け、咲美が一瞬、泣きだしそうな顔になる。それを見ても、スワッピングに惹きつけられ続ける心にはもう、揺らぎは生じなかった。

胸に刺す痛みをごまかそうと、落ち込む妻の唇に軽く口づける。加えて、彼女以上に落ち込んでいるそぶりを見せ、勃起不全の根深さを印象づけもする。日々重ねた嘘の演技は堂に入り、あっさり妻の同情を買うことができた。

「……おやすみ」

穏やかさを取り戻した声音で告げて、智の胸に甘えるように鼻を摺りつけ、咲美が目を閉じる。ほどなくして聞こえ始めた愛妻の寝息を聞きながら、男根が、止めていた呼吸を再開した時がごとく盛大に弾んだ。

(もう、少しの辛抱だ……そうすれば……)

何もかもうまくいき過ぎたために、逸る気持ちが抑えられなくなっていた。

晩方、そっけない返事を装った夫に、咲美が向けた視線の意味。そこを見過ごしてしまったことで、どのような結果がもたらされるのか。気づくことなく、この夜も智の脳裏には禁忌の妄執だけが渦巻いていた。