ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

推察した上で、智も今知った風を装い、流れを繋いだ。

「本当です。お二人からしたら僕らなんて、新婚同然ですね」

銀婚式というのは真っ赤な嘘で、正式に籍を入れたのは藪沼が三十過ぎてから。実際の所を知っているだけに、息苦しさが胸を衝く。

ここが好機と踏んだのだろう藪沼が、目配せしてくる。智が小さく首肯した直後に、奴はとうとう核心に触れた。

「いやー、うちらも波風立たなかった訳じゃありません。先日も言いましたように僕が不能だった時期もありまして。倦怠期も相まって何度危機的状況になったことか」

咲美が一瞬、息を呑んだのがわかった。

「そうだったわね。ほんと、今ではおかげ様で……あら、ごめんなさい。私ったら」

桂子が口に手を当てて、妖艶な流し目を送ってくる。それも合図だ。智が瞼を二度瞬かせて返答とすると、桂子が笑みこぼす。次いで藪沼が、さらに踏み入った。

「これも何かの縁です。どうですか、ご主人、今日は腹を割って話しませんか」

「え?」

驚いた風を演じる智の腹の底で、期待感が煮沸する。

モニターから流れるハワイアンのメロディーだけが、しばし部屋に響いた後。

「先日のお店のことです」

静寂を破る藪沼の声がやたらと響き、黙り続ける咲美の肩がビクンと揺れた。

「実際のところ、ご夫婦、夜のほうはうまくいってるんでしょうか?」

咲美は恥じらい赤らんだ顔を俯かせたまま、答える気配がない。妻の内情を察した智もまた、無言を貫く。無論、それが答えとなるのを理解した上での選択だ。

「やっぱり……。そういうことでしたか」

「それってつまり、その……元気にならない、ということですわよね?」

無言の肯定を受けて紡がれた藪沼夫婦の言葉に、押し黙ったままの咲美の緊張と羞恥ぶりは一段と高まる。

隣で俯いた拍子に妻の表情を覗き見、智は不誠実な期待が煮え滾るのを自覚した。

「いや、何も恥じることじゃない。よくあることです」

「そうですよ。特に現代はストレスの多い社会ですから」

藪沼夫婦もかつて同じ悩みに直面している、という前情報があるだけに、お節介だと思えども、無下に撥ね除けられない。

(咲美はそういう女性だ)

はたして夫の予想した通りに藪沼夫婦の喋りを制止できずにいる彼女が、

「この前話した〝嫉妬〟は試してみましたか?」

続く藪沼の発言を受けて、ピクリと身体を震わせた。

「……い、いえ」

わざと消え入りそうな声で答えたのを見て、居た堪れなくなったのだろう。咲美は夫のシャツの袖を引き、「もう語らなくていいから」と、潤む瞳で訴える。

すべて視認していながら、気づかぬふりをした桂子が畳みかけた。

「経験者として言わせてもらうと、一度お試しになる価値は十分あると思いますよ。ね、奥さん。旦那さんのためと思って……それに、智美ちゃんも、弟か妹がいたほうが、もっと活発になるんじゃないかしら」

智の口からも過去幾度となく発せられていた話題を持ち出され、咲美の目の色が変わった。

図々しさが持ち味ではあるが、頭より股間で考えるタイプの藪沼は切りこみ役に専従。場の仕切りを口のうまい細君に任せる。自ら配した二人の役割が最大限機能している現状に、智の胸はひと際の期待を蓄えた。

赤くなって俯いている点は変わらないが、咲美の唇がキュッと結ばれたのを、隣席の智のみが視認する。さっきまで夫の腕を引いていた手が、彼女自身の膝上に乗って握り拳を形作ってもいた。

(たった今、咲美は……藪沼夫婦の提案に乗る決意を、固めたのだ)

その予測を裏づけるように。

「そうだ、ちょうどいい機会です。ちょっとしたゲーム、やってみましょうよ」

藪沼の提案を拒む者は、誰一人としていなかった。

「席替えをしよう」という藪沼の提案は、しばしの逡巡の後に決行された。

智の隣席、さっきまで愛しい妻が座っていた席に居ついた桂子が、妖艶な笑みをよこしてくる。それ自体は特に惹きつけられるものではなかったが、そわつきと、居心地の悪さを強めた智の視線は、桂子から逃れるように真向いを向く。

そこに、赤鬼のような顔をスケベたらしく緩めている男と肩を寄せ合う咲美の姿があった。触れ合う二人の肩の内、咲美の方だけが震えている。

緊張と嫌悪の賜物である震えを愛しむように、藪沼の手が咲美の肩先を撫で繰った。より震えの増した肩を抱き寄せつつ、奴が言う。

「あまり神妙に考えなくていいですよ。あくまでこれは〝嫉妬〟の効果を確かめるための……言ってみりゃ、お試しみたいなもんです」

お試し、という所を強調した藪沼に続いて、桂子が意図を説明し始める。

「セックスレスの原因のほとんどは、男性側にあるそうです。そこで……先にも言いました〝嫉妬〟ですわ。奥さん。どうぞ今から、ご主人が嫉妬なさるように振る舞ってみてくださいな」

強弱を巧みに用いる桂子の物言いは、実に達者だ。真摯に相談に乗ってくれていると感ずればこそ、咲美も真剣に耳を傾け、恥じらいながらも、動こうとする。

その様を正面から見つめる夫──智の胸中は、ざわざわと蠢く不安と、底冷えのする怖気、そして底冷えの後に必ず去来する期待感に襲われていた。それらのせめぎ合いの情勢如何で刻々と心境が移ろい続け、一体どれが己の本心であるのか判然としなくなってゆく。