ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

「ご、ごめんね……」

夫の気持ちを案じているがゆえだろう申し訳なさげな響きが、藪沼に哭かされているように聞こえてならず。罪深き夫の腰の芯がズグンと甘い呻きを発する。

「……咲美……っ」

僕の方こそごめん──謝ろうと発した声にも、腰の疼きと同調した震えがにじむ。

「ごめんね、ほ、本当に戻るから、部屋で待ってて……」

じゃあ──と、焦り気味の響きを最後に、通話は打ち切られた。

終始よそよそしかった、妻の態度。

(すぐに戻るから、僕に身体を洗ってくれって……約束、したじゃないか……)

通話中膨れ続けた違和感は、もはや最悪の想像から逃れ得ぬほどに成育している。どす黒い嫉妬が盛るほど、いやらしき恍惚の鼓動が股間を打つ。

──こんなの、嘘……だ……。

──早く行こうぜ。行って、事実を確かめたなら、もっと、もっと切ない、極上の甘露が味わえるはずだ。ほら、なぁ……。

現実逃避と、卑しき誘惑。二つの間で熾烈な綱引きが続く。結果、脚はその場に縫い止められたまま。時計はすでに三時過ぎを示していた。まだ、咲美は戻ってこない。

──咲美を信じて、待つ。それが罪を犯した僕にできることじゃないのか?

──本当はもう、わかっているんだろう?

(本当は……? 僕は……僕……は……)

もがき、苦しみ抜いた末に導き出された結論は──。

ドン、ドンドン──訪れてすぐに藪沼の部屋のドアをノックした。なかなか応答がなく、また何度も叩く羽目になる。

「今、開けますから」

幾度目かのノックでようやく藪沼のダミ声が応答した。声は遠く、奴がドアに近づいてすらいないのが丸分かり。

そこからさらに十分以上。戸の前で立ち尽くすことを余儀なくされる。無論、焦れて幾度もノックを重ねた。

「開けてくださいっ」

次に藪沼から応答があったのが三時四十分頃。

「今身なり整えてますんで。もう少しだけ。ちゃんと出ますから」

それきり、何度叫んでも、もはや応答すら得られず。

ようやく扉が開いたのは午前四時を回り、いよいよ強硬手段に訴えるべきとの判断に至ろうとした矢先のことだった。

「咲美っ」

開け放たれる最中の戸に体当たりをかます勢いで室内へ押し入ると、こもった熱とえた匂いが鼻を衝く。目の前に、別れた時と同じ浴衣姿の咲美が、同じく浴衣一丁の藪沼につき添われて立っていた。

「咲美……」

もう一度、呼びかける。咲美は目を合わせたくないのか、俯いた顔を上げることなく、夫の横を通り過ぎて廊下に歩み出る。すれ違いざま、汗ばんだ彼女のうなじと鎖骨周りから、ムッとする女の体臭が漂った。

色濃い情交の痕跡に刺激を受けた妄執が、男根の脈動という形で発現する。他者に抱かれた妻を目の前にしながら──ただただ情けなく、恥ずかしく、夫の側から咲美を直視することもできない。声をかけてもやれなかった。

「いや、遅くなりましてすみませんね。奥さん、トイレ入ってまして」

白々しい藪沼に毒づく気力すら湧いてこなかった。ニタニタと緩みっ放しの奴の目尻と唇を、ただ苦々しい顔で睨むのが精々だ。

「それじゃ、アサオカちゃん、おやすみ」

咲美が藪沼を振り返らなかったことが唯一の救い。そう思い詰めた夫を待つこともなく、愛妻はエレベーターへと続く廊下を、時折ふらつきながら戻っていった。

──酔っ払って、寝ちゃって、気分悪くなって。

寝室に戻ってからも歯切れの悪い物言いに終始した咲美の表情は、明らかに優れぬ様子だった。疲れてるという彼女を引き留めるわけにもゆかずに、一人風呂に向かう背を見送ったのが、小半時間前。

今、愛妻はすでに床に就き、寝息を立てている。

疲弊ぶりの窺える寝顔を見ていると、二つの想いが智の胸を衝く。

──身体を洗う約束を忘れてしまうのも無理からぬこと。

──それほど、藪沼とのセックスが激しかった、ってことだ。

(やめろ! もう、考えたくない。もう……そんな妄想に、僕は……)

拒んでも、嘆いても、血潮を滾らせる肉勃起に奔る恍惚の痺れは、打ち消せない。

隣に妻が眠っている中、自慰をする──そんな惨めを曝せるものかと、なけなしのプライドが訴える。

おかげでギリギリ思いとどまれはしたものの、一睡もできず。妻の身を案ずることもできぬうちに、長い長い夜が明けた。

「ぜひ、今度はスキーでもご一緒しましょう」

帰りの車中。ハンドルを切りながら、藪沼が晴れやかな声を出す。

心身共に疲弊し、虚脱感にも苛まれていた智は、一度も応答できず、ただ聞き流すことしかできなかった。

「あ。そうか、最近はスノボですよね、ご主人?」

早くも次が待ち遠しいと言わんばかりの性急さで、話をまとめにかかる藪沼。

「アサオカちゃんは、スノボやるんだっけ?」

咲美に話を振る奴の口調は昨日までと何ら変わらないのに、それがかえってわざとらしく聞こえた。

「い、いえ……もう何年もやってないです」

藪沼の問いに答える咲美の視線は、車窓に向いたままだ。

(この二人が昨日、情を通じた……本当、に……?)

沈黙の中にも、二人の馴れ馴れしさを勘繰らずにはいられない。

(夫である僕が、朝から一度も咲美と目を合わせられないでいるのに)

図々しさを如何なく発揮して咲美に話しかけ続ける藪沼への妬みが、より募る。