ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

酔いの力に頼ったのを少し悔いた直後に、マナーモード状態でズボンのポケットに収まる携帯電話が震えだす。一度のバイブ振動を残して、早々に電話は切れてしまった。

──すでに店内に潜んでいる藪沼が、かけてきたのだ。事前の取り決め通りの切り方に、確信を得る。それは、これから行う蜜戯のための準備が整ったことを知らせるサインでもあった。

「ね、後ろに行ってみようよ」

急いている心情を悟られぬよう、極力平素の声に努めて、妻を誘った。

ようやく落ち着いてきたばかりの咲美は、案の定、不安げな顔を向けてくる。

「大丈夫、大丈夫」

落ち着かせるように言い、彼女の手を取って席を立つ。

「ちょ、ちょっと待ってよっ」

一人取り残された時のことを考え、不安を強めたのだろう。握る手に熱をこめて、咲美は夫に導かれるがまま、店の奥側にあるボックス席へと連れられていった。

「あそこがいいね」

近場から順次目で追い、落ち着き先を探していると、最奥にがら空きのソファーが向き合って並んでいるのが見えた。

間接照明に照らされているとはいえ、気をつけないと足元が不安なほど暗い店内を、互いに杯を片手に持ったまま歩みゆく。不安を煽られた咲美が身を寄せてきたせいもあり、性交を断って久しい夫の胸が期待の鼓動を刻む。

浅岡夫妻がたどり着くまでに、意中のソファーに腰下ろす者は現れず。まず咲美を中央に座らせて、わずかに隙間を設ける形で右隣に智も腰を下ろした。次いで、テーブルに各々の飲み物が入ったグラスを置く。

直後に頭上のキャンドルライトが揺れ、咲美の横顔を妖しく照らした。

(あぁ、今日の咲美はなんだか……)

いつにも増して綺麗に見える。贔屓目と思いつつも、居合わせる誰よりも美しく映る妻に見惚れた。しばし見つめて、照れた彼女が目線を落としたのを契機に、智も名残惜しむ視線を逸らし、周囲の様子を窺った。

近場では、斜め前のボックス席に、向かい合って二組のカップルがいるのみだ。両カップルとも身体を寄せ合っているのがシルエットでわかる。

じきにカップルの一組がキスを始めた。夫の目を追ってそれを目撃した咲美が、酒のせいではない火照りを頬に染ませて、困った表情をする。さらに、そのままの表情で助けを求めるように夫を見つめた。

頼られたのを嬉しく思い、咲美の手を握ってやると、彼女がまた強張っているのがよくわかる。

(あれ……って、しちゃってる、よね?)

咲美が声を出さずに口の動きで驚きを伝えてくる。それからほどなく。彼女の手に一層力が入り、見つめ返した夫の瞳に、驚愕で固まる表情が映った。

驚愕に固まる咲美の視線は、キスしているカップルの向かい側。もう一組のカップルの女性の、露わとなった乳房に釘づけとなっている。

「ね、ねぇ。やっぱりもう帰ろ?」

夫の太腿を揺すり立て、咲美が訴えかけた。小声でも要請を受けた、夫は──。

「……んっ!?」

顔を寄せ、ひと際目を見開いた妻の唇を吸う。即座にビクンと跳ねたきり、咲美の身体がひと際強張る。逃れられぬよう手で押さえた彼女の両頬は、平素よりも、ごく普通に夜の営みをこなしていた時よりも、ずっと熱を湛えていた。

繋がる口内を伝う唾に、カンパリソーダの甘苦い味が染みている。夫が使うと怒られるのが常の、咲美専用のシャンプーの香りが鼻を衝く。潤んだ瞳が見つめてきてもいて、押し当たっているワンピースの胸からは早鐘のごとき鼓動が繰り返し伝わった。

五感のすべてで味わう妻の愛しさに、瞬く間に魅了された。

「ンッ……! やっ、智……」

(咲美も、昂奮してくれてる。なら、もっと……いける)

夜の営みが無沙汰という前提があったにせよ、咲美は人目のある状況に羞恥しつつ悦を得ている。以前カーセックスに興じた時に確認済みの彼女の性分を、この場で存分に利用する。

「……もう、勃ってきてるよ?」

来店前にすでに固めていた腹に従う夫の言葉が、妻の羞恥を煽り立て。

「そ、それはっ……だって……うぅ」

夜の営みが途絶え、飢えているせいだ、などと人前で言い出せるはずもなく。夫の目論見通りになお羞恥し、それに由来する悦を内に溜めゆく。そうしてとうとう堪らず瞼を下ろし、咲美は視界を閉ざしてしまった。

その庇護欲そそる在り様に、また夫の胸と股間が鼓動する。

(恥ずかしさに耐えきれなくなると、いつもこうだ。これまでは、夫である僕が占有していた、可愛らしい咲美の姿。それを今、アイツが……)

今も薄闇に乗じて店内のどこかに潜み続けている藪沼の、ねめつく視線を想起した途端。智の独占欲に火が点った。それが、毎度歪な情欲の呼び水となると知っていながら、抑える努力を放棄して、うわべだけ平静を装い、新たな提案を紡いでゆく。

「触っても、いい?」

「う……も、もうっ。いちいち確認しなくて……いいよ……もう」

察して、と言わんばかりの態度を見せる咲美の身は、固まったまま。一層きつく閉じられた瞼に、開く兆候は見られない。

「触りやすいように、テーブルを少し動かすね」

向かいにソファーがあるために、動かすといってもたいしたことはないと心得ていたから。向かいのソファーに人が座るスぺースがなくなるのが、歓迎する所でもあったからだろう。夫が付け加えた言葉にも頷くばかりで、咲美は目を開かなかった。