ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

(興味を惹かれたのは一時の気の迷い、酒の酔いのせい。それだけのこと)

駅へと向かう間中、繰り返し頭の中で復唱し、言い聞かせる。

電車に乗り、吊り革を掴んで立ち尽くす間も。自宅最寄りの駅へ着き、タクシーに乗りこむ際も。身に宿ったそわつきは潰えず。

スワッピング、夫婦交換。非日常的な言葉が、脳内でぐるぐると廻り続ける。

(どうして、奴……藪沼は、急にあんな話をしたんだ。わざわざ、職場で顔を合わせる咲美の旦那である、僕に向けて……)

考えあぐねる智の脳裏に、日々藪沼にセクハラを受けていると憤っていた咲美の顔が唐突にフラッシュバックする。それを受けて行き当たった、まさかの、最低の予想に戦慄した。

(まさか。奴は……咲美を狙って……。だから、あんな話を聞かせたのか? 僕に、スワッピングを持ちかけるつもりで、あわよくばとの思惑で……)

咲美は、夫と娘を真摯に愛する、今時珍しいくらいの真面目な、身持ちの堅さを有している。藪沼の狙いがどうあれ、不貞に及ぶなどありえぬ話だ。

卑しき想像を思い浮かべた己への羞恥と嫌悪が湧く。と同時に、それでもなお、智は「もしかして」と思い巡らさずにはいられなかった。

あの、卑しさに満ちた男の指が、舌が、唇が、愛しき妻の身に這うとしたら。

「……っ!!」

思い浮かべた脳天と締めつけられた胸をむしりたくて堪らなくなるほどの熾烈な嫉妬が沸き起こり、悪寒と震えが全身に巡った。吐き気を伴う妄想は、いくら頭を振っても剥がれ落ちてはくれず。苦しげに呻いたがためにタクシーの運転手に気遣われて以降、智はしきりに咳をして風邪を装うのに腐心した。

体裁を気にしたのではない。ただただ、己の内に潜む異常な感情を打ち消したい、無いことにしたい一心で起こした行動だった。

(咲美が他の男に……それも咲美が嫌ってる藪沼になんて……想像しただけでっ)

学生時代さながらの強烈な嫉妬に蝕まれ、今すぐ咲美を抱き締めたい衝動がいよいよ抑えがたくなる。久しく忘れていた激情に揺り動かされたために、頭の中も胸の内も、瞬く間に愛妻への想いで満杯となった。

間もなく着いた我が家の明かりに引きこまれるように、精算を急ぎ済ませて降車し、家族の待つ玄関へと身を滑らせる。

「おかえり、智」

「おかえりさない、パパ」

愛する妻と娘。二つの笑顔に出迎えられた瞬間。

(……ああ)

彼女達を護り慈しみたい感情が湧いて出たことで、智の顔にようやく安堵の笑みが浮かんだ。待ちわびていた家主の笑顔を目にして、妻と娘の顔にも華やぐような──母娘で瓜二つの笑みが差しこむ。

「ちょっと顔色が悪いみたいだけど……大丈夫?」

「ああ。ちょっと、夏バテ気味かもしれない。先に、風呂をいただくよ」

よく気のつく妻を心配させぬため、小さな嘘をつく。ばれぬコツは、堂々とつき通すこと。まだ咲美とつき合い始める前、大学のシナリオ研究サークルの仲間でしかなかった頃に学び、以来ずっと心得ているやり方だ。

「うん。じゃあ、智美と一緒に待ってるから」

疑う様子のない妻に上着と鞄を預け、じゃれつく娘の頭を撫でてから、単身脱衣所へ向かう道すがら。

愛情に満ちた家族と共に在れる。

(これに勝る幸せが、あるものか)

今の幸せを噛み締め、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔で前を向く。

智自身この時はまだ、己の内に巣食う因業の根深さに気づけてはいなかった。

第二章 カップル喫茶の暗がりで

夜の歓楽街で藪沼と遭遇してから、ひと月ほど経ったある日曜日。浅岡夫婦は路地に停めた車中で性交に及んだ。

「……だめだって」

智所有の国産車の窓に、ブラインドの類は実装されていない。停車している場所は、少ないとはいえ人の往来がないわけでは決してない。気をつけても第三者に事を目撃される可能性が排除できない状況にあるわけで、咲美が躊躇するのも当然と言えた。

「でも濡れてるよ」

それでも、智は食い下がった。伴侶の股間を撫で繰り、昂奮の証拠を確かめた上で車中での結合をせがむ。

「あんっ、もぉっ、智っ」

背もたれを倒され、ジーンズを脱がされるに至っては、咲美も観念したように力を抜き、夫に身を任せる腹を固める。が、なお瞳には抗議の色を宿したまま。

「どうする? 今だって、どこかから覗かれてるかもしれないよ」

「やっ、だめ」

視線を意識させる物言いで煽ると、愛妻はことさら羞恥し、真っ赤になった顔を横に背けてしまう。同時に腰を捩って、飾り気のない白ショーツに包まれた、丸く大きめの臀部を揺らしもした。

「あ……ちょ、ちょっと智っ。やだ……やぁっ」

捩れた妻の身体を手で押して正面を向かせ、間を置かずにカットソーを捲り上げる。そうして露出させた双丘を覆うブラジャーも、無地の物。咲美が性行為に及ぶつもりでドライブに応じたのでない証とも言えるそっけない下着を目にしても、智の鼻息は収まらなかった。

「小さい頃から咲美を知ってる人が一杯いる町で、おっぱい丸出しにしちゃってるね」

今いる場所は咲美の実家から車で三十分ほどの距離にあり、彼女が通った高校にも程近い。

「やっ」

知り合いに出会う事態を想像して、咲美は再度身を硬くする。その一方で、夫の手に愛でられる愛妻のショーツ越しの股間は、熱を帯びていった。