ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

襖の向こうに、部屋を出る前同様に綺麗なままの、並び敷かれた布団が見える。咲美が身を横たえた形跡は見当たらなかった。

(……っ、そう、だ。風呂……!)

希望を見出して再び立ち上がり、急ぎテラスに踏み入る。備えつけの小露天風呂、その脇の脱衣スペース。すぐ見渡せる広さのどこにも、期待した姿は見当たらない。

咲美は、まだ帰ってきていない。認めたくない結論が頭を掠める。

(別れてから三時間以上経ってるのに? まさか、まだ……!?)

藪沼の部屋に、いるというのか。いや、違う。きっとどこかで涼んでいるのだ。

(まっすぐ帰るから身体を洗ってと、約束したのに? そもそも藪沼の手垢にまみれた身体で出歩くなんて、ありえない。あって堪るものか)

酔いは完全に醒めていた。鞄から携帯を取り出し、取り乱したまま咲美の番号を呼び出す。震える指で、発信ボタンを押した。

二度、三度、四度と、繰り返される呼び出し音が疎ましい。

「どう、したんだよ。早く、出てくれよ……咲美っ」

足掻く男を嘲笑うように、留守電メッセージが流れだす。

咲美が電話に出ないことなど、今までただの一度もなかった。

(一体、何があった。どうして出てくれない。出られないのか? どうしてっ)

一度電話を切り、着信履歴を覗く。咲美からかかってきた形跡は──ない。新着メールも、なかった。

もう一度電話をかける。呼び出し音が十回を超え、十五回を数える。

静寂が支配する室内に、繋がらない電話の嘆きだけが空しく響く。

二十回を超えたところで辛抱の限界を迎え、乱暴に電話を切った。

まだふらつきの残る足取りで、廊下に出る。震えっ放しの身を、深夜の冷たい空気に晒しながらエレベーターのもとへ駆けつけた。目的の階へのボタンを押す指が、嫌な汗にまみれて何度も滑り、手間取ってしまう。

(咲美……っ、どうか……どうか)

必死に願う自分がいる一方で、藪沼の部屋に入った時点で無事なはずがないではないか、と皮肉とも自虐ともつかぬ感情を抱く自分がいる。

藪沼の部屋の前にたどり着く前での数分間、胸内では絶えず己同士の言い争いが続けられた。

(着い、たっ……この扉の向こうに)

それだけに、目的地を視界に捉えた瞬間、事態にそぐわぬ安堵が胸に染む。すぐにそれを追い出してラストスパートをかけ、たどり着くなり扉をノックした。

一度目、二度目のノックにも応答はない。

「藪沼さんっ、咲美ッ」

さらに、呼びかけながら三度、続けて扉を叩く。それでも応答はない。

(いない、のか……?)

もう一度だけノックしてもやはり静まり返ったままだ。

(二人でどこかへ……? ありえない。そうだ、行き違いになった可能性だってあるじゃないか)

息を整える間もなくエレベーターに取って返す。希望を抱く胸の灯に支えられ、震えの止まった指で一階へと向かうボタンを押した。

ロビーに顔を出すと、愛想のいい四十歳くらいのフロントマンが迎えてくれた。

「浅岡といいますが……」

細かい事情は伏せつつ、藪沼の部屋の番号を伝え、その部屋の主が外出していないか尋ねる。フロントマンの答えは、ノーだった。

「どうしてもすぐ伝えたいことがあるんですが……」

急を要する旨を言葉と態度で示すと、直接部屋に電話をかけてくれると言う。また二度、三度──静寂の中に呼び出し音のみが響く、拷問めいた時を過ごす羽目となり。

「……出ませんね。大浴場のほうはご確認されましたか?」

すがる思いでフロントマンの言葉に従い、大浴場の方へと足を運ぶ。けれどそこにも、藪沼の姿はない。通りかかった女性の係員に女湯も確認してもらったが、咲美らしき人物もいないと言われた。

フロントへ駆け戻り、もう一度藪沼の部屋に電話を入れてもらう。必死の形相で願い出る男を前に、さすがにフロントマンも心配の度合いを強めている。

「あ……! いらっしゃいましたか、こちらフロントでございます」

「い、いたんですかっ?」

通話中のフロントマンが頷いた。二人は部屋にいたのだ。

(じゃあ、さっきは……僕と行き違いで部屋に戻ったのか? でなければ……眠っていた……居留守を、使った?)

後ろ二つの予測は、いやが上にも妄想を掻き立てる。

(くそっ! こんな時まで、僕は……!)

胸のあたりにどぎつい痛みが巡っているのに、腰の芯が熱を孕む。

「浅岡様がご心配されまして。あの、少々お待ちください」

事情など知る由もないフロントマンが、ほっとした表情で受話器を差し出した。取らぬわけにもゆかず、震える手で受話器を握る。

「もしもし……」

声にも滲む震えを、

「あ、どーも」

藪沼の呑気な声の響きが打ち消した。それが余計に癇に障る。

「な、何度も電話したんですよっ」

「いやぁ、すみません。部屋の風呂に入ってたんで気づきませんで」

スワッピングの自慢話を聞かせたがっていた時と酷似した、白々しさとそわつきの感じられる口振り。

嫌な予感を孕まされ、身も心も竦む。されど、問わずにはいられない。フロントに背を向けて、ひそめた声できりだした。

「さ、咲美はっ?」

「それがですねぇ……」

妙な間が空く。

(なんだ。どうしたっていうんだ、早く答えろ! ……ッッ!?)

藪沼が無言を貫く間。幾度か物音が聞こえた。それが余計に不安を煽る。