独りぼっちになった自宅で日がな一日立ち尽くした。妻と子を失った悲しみが現実感を伴って訪れた、夜になってからのこと。涙で濡らしたベッドには、まだ妻の香りが残されていた。
第四章 一度きりの約束で
1
咲美はスーパーのパートも辞め、都内の実家へ戻ってしまった。
一週間があっという間に過ぎ、十日を越え、そして──秋がやってくる。
張り合いのない毎日を抜け殻のごとく過ごすことには慣れ始めていたが、昼夜に食すコンビニ弁当の味には一向に馴染めないでいる。咲美の愛情のこもった弁当への恋しさを、未だ智は振りきれずにいた。
(もう、戻ってくるはずもないのに)
妻と娘の部屋は、出ていかれたあの日のまま残してある。そこだけ時が止まったように変化のない部屋を眺めるたび悲しみを詰めこまれるのが嫌で、近頃はあまり直視することもない。
(そろそろ……片づけるべき、なのかもしれないけれど)
考えはすれども手をつけられない日々が一週、二週と続き──ついに、咲美と智美が居なくなってから今日でひと月が経つ。
この日、智は地下鉄の駅を降りてすぐに、土砂降りに見舞われた。
手に傘はなく、自宅に電話をかけても出る者がいない。近場のコンビニでビニール傘を買おうとも思ったが、雨に打たれたい気分が勝り、濡れながらの帰宅と相成った。
ずぶ濡れのスーツが重たく肩にのしかかる。革靴もぐっちょりで最悪の心地。濡れたくて雨中を駆けたのに、心は晴れなかった。雨天と同様の心模様で、帰りついた我が家の鍵を開ける。そして──。
「パパぁ!」
もう聞けないはずの、鈴音がごとき声に耳朶を揺さぶられた。
背丈より大きなバスタオルを持ってやって来た満面笑顔の愛娘が、一生懸命に拭いてくれる。信じられずに瞬いた目を下ろすと、玄関に智美の小さな長靴と、もう一つ。白いスニーカーが並んで置いてあった。スニーカーの主が揚げているであろうてんぷらの音と匂いが、キッチンから届けられる。
「さ、咲美……っ」
駆け寄るなり抱きついてきた夫に向けて、彼女は「お帰りなさい」と、以前よりも少し陰のある笑顔で応えてくれた。
2
智美が眠った後。居間で、夫婦二人きりで話をした。
「色々考えたの」
口火を切ったのは、またも咲美の方。二人きりという状況がひと月前を想起させたが、今夜は始めから顔を突き合わせている。話題は当然、ひと月前の続きだった。
「ショックだったし、悲しかったし、最低だと思った。顔も見たくないって……」
三行半を突きつけるために、咲美は戻ってきたのだろうか。それだけは耐えられない。しかし、何も言う権利などないのだ。ただ彼女が紡ぐ言葉を聞き逃さぬことしか、今はできない。
「でも……」
大きく間を空けてから、咲美が続ける。
「智のこと、嫌いに……なんかなれなかった……」
「……っ!」
まず耳を疑い、次に安堵、だいぶ遅れてようやく切なさに見舞われる。咲美の頬にひと月前と同じ涙が伝っているのを視認したからだ。
「……咲美……」
ようやくそれだけ絞り出した夫の掠れ声を聞き留めて、彼女が首を横に二度振る。
「でも、このまま前みたいには戻れない。何もなかった頃には戻れないよ……」
表情をまったく変えぬまま、咲美は大粒の涙をこぼし続けた。
「……うん」
当然だ。信頼と愛情を裏切った罪は、それほどに重い。
「一回、そういう智を知っちゃったら、ずっと智がそういうこと考えてるんじゃないかって、疑い続けると思う」
頷く夫を見て、続きの言葉が紡がれる。
「スワッピングとか、あたしはわからない。調べる気にもならない」
咲美の言い分はどれももっともであり、ゆえに弁明の余地もない。
「一つだけ、聞かせて。なんで……藪沼なの?」
わからない中でもこれだけは知っておきたいのだと、彼女は言った。
それは、智がいくら自問自答しても得られなかった答えでもある。
「あたしが嫌ってるから? 嫌な人と寝て欲しいの?」
「自分でも……わからないんだ。何故そんな気持ちになったのか」
もう二度と咲美の前で嘘はつかない。否、つけない。切なる心情に従って、正直に告白する。
「ただ、咲美があんな奴と、って思ったら……どんどん妄想が止まらなくなって」
歪な妄執と、それに伴う禁忌の恍惚。妻子に出ていかれて以来一度も想い馳せることのなかったねっとりとした感覚が一時的に再来するも、憑かれることはなかった。
今は、もっと大事なもの、家族を失いたくない気持ちで胸が一杯だったから。
「でも、もういいんだ咲美……もう」
何もかもなかったことになんて、できやしない。それでも、どこかひずみが残るとしても、咲美と智美と共にこの先も歩んでゆきたい。身勝手なことと知りつつも、想いの丈を擦れ声で綴る。その夫の言葉を噛み含めるように、しばし無言を貫いた後。
「温泉に行くわ、あたし」
妻は、夫が想像だにしていなかった言葉を、震える唇より吐き出した。
「……え?」
温泉。急に何の話をしているのだ。すぐには理解できなかった。
「どうなるかなんてわかんない。怖いし、できないかもしれない。でも、行ってみる」
怖い。なぜだ。いや、待てよ、もしかして──思い当たった途端、怖気が奔る。すがるような目を向けた夫を見つめ返し、咲美が告げる。