ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

恥ずかしがり屋の彼女なりの、精一杯のお誘い──。すぐに理解し、唾を飲む。いらぬ気を回していたのだ、という徒労感と安堵が胸に染み、束の間、性的昂揚を忘れさせた。

「あ……ああ、うん。すぐ、洗って出てくるから!」

すべて察したその上で受け入れてくれた愛妻への感謝と愛情を胸に抱き、智は急ぎ足で脱衣所へと駆け込んだ。そんな夫の姿が微笑ましく映ったのだろう。

「ちゃんと隅々まで洗っておいてくれなきゃ、嫌だからねーっ」

からかう咲美の顔には再びいつもの、華やぐような笑顔が戻っていた。

「それじゃ」

「お疲れさんでしたぁ」

退社する同僚の送別会が二次会まで終わり、参加者たちが思い思いの方角へ散ってゆく。まだ飲み足りぬと三次会の参加を募る者、加わる者。単身、または少数で別の酒場へと向かう者。いずれも引き続き酒宴を楽しもうと盛り上がる者が大勢いる中、智は足早に帰路を歩んでいた。

(もっと早めに切り上げて帰るつもり、だったんだがなぁ)

二次会まではと親しい同僚に請われたせいもあり、予定よりも遅い時刻までつき合う羽目となった。送別会が楽しくなかったわけではなかったが、夜風に頬を撫でられながら単身、賑やかな繁華街を歩いていると、余計に家族が恋しくなる。

娘の智美はすでに眠りについているだろうが、そっと寝顔を拝むだけでも明日への活力となる。咲美はきっとまた今夜も起きて待っていてくれていることだろう。

早く帰って家族の顔を見たい気持ちが強まり、智の足取りは忙しさを増した。

時刻、状況が先週の残業の時と似通っていることも、急ぎ帰宅したい理由の一つ。ついつい先週の妻との睦事を回顧し、智の頬と胸に酔いとは別の火照りが生まれた。

「ふー……っ」

酔った息を吐き出せば、その分熱を失った身体の芯が震える。余計に記憶の中の妻の柔肌が恋しくなり、疲れ知らずの足が前進し続けた。早く帰れば今夜も、という期待で気もそぞろとなり、周囲を見渡して確認するのを怠った、その結果。

「……ん?」

最寄りの駅に向かう道を歩んでいたはずが、はたと立ち止まり周りを見渡すと、見覚えのない景色に囲まれている。見覚えはないのだけれど、一見してどういった所なのかが判然とする、けばけばしいネオンが跋扈する街並み。

行き交う人々も特徴的で、視界に映る限りすべてが男女の組み合わせであり、皆一様にそそくさとした足取りでそこかしこの店や宿泊施設ラブホテルの中へと消えてゆく。

すれ違うカップルが軒並み愛しげに肌を寄せ合っているのが嫌でも目に入ってきて、思わず大学生時代に咲美とラブホテルを利用したことを思い出した。

当時は自由に使える金が限られていて、頻繁にとはいかなかったが、それでもクリスマスやバレンタイン、ホワイトデー、どちらかの誕生日。そうした特別な日によく利用した。利用の際は、決まっていつも「ご宿泊」。朝まで咲美を離さなかった。互いに若い盛りだったとはいえ、咲美もよく応えてくれたものだと、今になって思う。

情動に突き動かされていた学生時代を懐かしんでいると、胸の奥が仄かに疼く感覚に囚われもした。

(まだ十年と経ってない話なのに、妙に遠い昔のように思える)

多数の男子に人気のあった咲美の心と身体を繋ぎ留めようと躍起だった恋人時代、セックスもそのための一手段として機能していた。

それが結婚という儀式を経て、法的にも認められた関係、家族になり。娘が生まれて親となり。確かな絆を育み続けている今。当時のように貪欲に、咲美の心と身体を欲する理由がない。

咲美への興味が薄れたのではない。夫婦として過ごす中で互いの気持ちが通い合った結果、咲美の愛情を失う危機感が薄らいだのだ。

(道端で何、考えてんだか)

夜風に吹かれた瞬間、気恥ずかしさと共に、早く帰宅して咲美の顔を見たいとの想いがこみ上げる。

(思ったよりも酔ってるのかもしれないな……)

注意を怠って道を間違えたことも含めて結論づけ、深いため息をひとつ。吐き終えた後に身を翻す。行き間違えた地点まで戻ろうと歩み始めてから、一分と経たぬ内。

「わははっ」

一軒の店から出てきた中年男性の、上機嫌な声に目が向いた。随分と歳の離れた女性を連れているのを見た瞬間「いかにもだ」と感じ、智は目を逸らした。

濃いめのメイクに派手な着飾りよう、れた印象から、智は女を水商売従事者と推察した。その連れである男は年嵩で、一瞥した際の印象は「冴えない」の一言。

二人は親しくじゃれつくでもなく、妙にさばさばした雰囲気で接しているようでもあった。とても夫婦や恋人であるように思えない。

極力関わりたくない。瞬時に判断し、智は目線を逸らせたまま、まだ店前で何事かやり取りしている彼らの脇を通り過ぎることにした。

急く気持ちを反映した大股で十歩も歩いた時点で、ミスマッチカップルの詳細な外見が判別できる距離となる。

(……あ!)

目線を逸らして通り過ぎようとしていたにもかかわわらず、智は惹きこまれるように年嵩男性の顔を拝んでしまった。さらに間が悪いことに、目まで合ってしまう。一瞬だったが、年嵩男がばつの悪そうな表情となったのを視認した。それでつい、さらに見入ってしまう。

五十代後半ほどと思しき、くたびれた雰囲気の男。派手に着飾った女性と並ぶことでより冴えなさが際立つその男は、極めて特徴的な顔の作りを有していた。