ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

「でも、ほら。蟹なんか中々食べられないじゃん。きっと、智美も喜ぶと思うよ」

夫は、妻を納得させるもっともな文言を繰り出す一方で、別のことを考える。

(食いしん坊。欲張り、か──)

たしかにその通りだな、と納得して以降は、来るべき日についての期待ばかり募り、急きつつのシミュレートに密かに没頭した。

「まあ……ね。智美が喜ぶなら、あたしだって、嫌がる理由はないけど」

夫の邪な欲など知る由もない妻が、また気遣いを覗かせた。ほどなく近場で時間を潰す旨を告げた夫に対しても、気分を切り替えてまだ幾分ぎこちのない笑顔を浮かべて見送りまでする。どこまでも、善良な妻。

咲美が善き妻であるほどに、罪深き夫の妄想は根を張り廻らせていった。

藪沼の家は築二十年ほどの分譲マンションで、職場であるスーパーから車で十五分ほどの所にあった。

(うちと同じ区内にあると、以前藪沼から聞かされて知ってはいたが……)

これほど近場だとは思っていなかった。

幼稚園に智美を迎えに行き、一旦家に戻った後。仕事を終えた咲美とも合流し、三人で藪沼宅を訪問した。時刻は、午後六時を回ったばかり。

咲美は仕事帰りということもあり、カットソーとジーンズという見慣れた格好。夫と娘も「気兼ねなさらずいつもの格好で」との藪沼の言葉に沿い、普段着で居並び。夫が内心の期待と不安を押し殺してインターホンを押すのを、娘はわくわくと、妻は何とも言えない表情で見守っていた。

「やあ、いらっしゃい!」

ほどなくして顔を見せた藪沼は部屋着姿で、張りつけたみたいな笑みで出迎えてくれた。和やかなムードを醸そうとの意気は感じられる。が、奴の細目の奥に覗く瞳の挙動が、なけなしの努力を台無しにしていた。さっそく咲美を視線で舐り回していたのだ。

自然と夫の陰に隠れた妻も、妻を気遣い護るそぶりを見せた夫も、おそらく同じ思いを抱いていた。

──ひと月前には想像もしなかった事態になった、と。

かつて咲美が語った通り、桂子は非常に料理の手際がよく、刺身や焼き、蟹すきに至るまで、まるでコース料理のような豪華さでもてなしてくれた。

浅岡一家の訪問から小一時間ほど経った頃。藪沼家の広めのリビングには、意外なほど穏やかな空気が流れていた。

「それがねご主人。アサオカちゃ、いや失敬、奥さんのファンはウチの店の者の中にも結構、多いんですよ」

「もう、やめてください副店長。それに、アサオカちゃんでいいですよ」

当初は硬かった咲美の表情も、食が進む中で徐々に和らいでゆき、あれほど嫌っていた藪沼との会話に笑顔を見せるまでになっている。ビールも進んで、ほろ酔い加減なためもあるのだろう。セクハラトークも楽しげに返せそうな余裕すら感じられる。

「いやいやいや、ご主人を前にして、アサオカちゃんはさすがに、ねえ」

藪沼はといえば、完全にでき上がっていた。恵比寿様のような満面の笑みを湛えて、生来の持ち味であろう馴れ馴れしさを如何なく発揮している。

「いえ、いいんですよ。アサオカちゃんで。気にしないでください」

時折しつこく絡み過ぎて咲美が嫌な顔をすることもあったが、その都度桂子がさりげなく割って入り、場の空気を保たせる。

そして、また今も。

「あはは。でも、ご主人もシャキっとした方で、奥さんが惚れ込むのも、わかるわぁ」

雑炊を作り始めた桂子が、口数が減り気味だった智に話を振った。

「ほんとに。私が若かったらほっとかないくらいよ」

「いやぁ。やめてください」

先のことを考えると半分冗談とも言い切れず、困惑した。どういう顔をしたものかと悩む夫の様子に気づき、隣の咲美が「ぷぷ」と短く吹き出す。

「おかゆ~」

蟹にはあまり興味を示さなかった智美が、雑炊を指差し、催促する。

「おぞうすいよ、智ちゃん」

「おじょーしゅい」

咲美に促されて発声した娘の拙い口振りに、皆、揃って笑みを浮かべた。

「はーい、智美ちゃん、どーじょ」

まるで祖母のような振る舞いで、桂子が智美に椀を渡す。

(知らない人が見たら、一家の団欒に見えるのかもしれない)

そもそも咲美の気を緩めるために、じっくりと時間を取ろうと進言したのは、自分だ。なのに──穏やかな時間が長引くほどに、智の口数は減っていった。胸内で渦を巻く妄執の熱量に押されて、外面を装うための余力が目減りし続けているせいだ。

雑炊を食べ終えた智美が眠ってしまうと、藪沼夫婦に勧められるまま、年代物のワインで乾杯する運びとなる。決して酒に強い方ではない妻がなみなみ注いだ赤ワインを喉に流したのを見て、夫の心臓はひと際激しく鼓動した。

(もうすぐだ。もうすぐ、僕の妄想が……)

部分的にだが、現実のものとなるのだ。期待に逸る胸を抑える智の視線の先で、テレビ画面にワイキキの美しい映像が流れた。今春、ハワイへ行った時に撮影したものだと、藪沼が言う。

「えっ。今年、銀婚式なんですか?」

だいぶ酔いも回り、聞き役に徹していた咲美が、その話題になった途端に驚きの声を上げた。

「お恥ずかしいんですが」

「二十五年も経つともう、爺さん婆さんですわ」

少々わざとらしく感じるほどに、藪沼夫婦がのろけてみせる。

「いえ、そんな、とても素敵だと思います」

二人を見つめる咲美が、本当に羨ましそうに目を細める。元々世辞を言うタイプではない上に、酔っているせいで本音が容易にこぼれる状態でもあるのだろう。