ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

帰り際に藪沼の発した一言に、強く心を惹きつけられていたからだ。

『僕はモテないんですが、アッチのほうだけは自信あるんですよ。アサオカちゃ……いや、奥さんにも絶対悦んでもらえると思います』

聞き留めた瞬間に、怒りと不安と焦燥、そして期待が急膨張した。それらが混濁して押し寄せた結果身に奔った言いしれぬ背徳感も含め、今なお智の内に堆積し続けていた。

(咲美はお前など大嫌いなんだ。お前のような下種を相手にするような女でもない)

すでに咲美とヤれる前提で話していた藪沼。この場に居ない奴に向け、悪態をつく。

(大学時代はサークルでも憧れの的だった。ナンパなどには振り向きもしなかった。それを、僕は一世一代の猛アタックでモノにしたんだ。その咲美を……っ)

お前などが、落とすというのか? それほど自信があるというのなら、手並みを拝見してやろうじゃないか──。

「……っ、はは、いよいよおかしくなってきやがった……」

挑戦的な感情が溢れ出すに至って、さすがに頭を抱えた。

自分でも収まりのつかない種々雑多な感情に憑かれて、藪沼と別れる際どう挨拶を交わしたのか、交わさなかったのか。それすら記憶にない。

一方で、奴と語らう間中、胸と股間に響いたシグナルを、忌みつつも忘れられないでいる。それどころか、もう一度味わいたいと、甘露に思えてならなかった衝動に焦がれてすらいるのだ。

『いや、実はご主人の前で恐縮ですが、ほんっと……タイプなんですよぉ~』

酒席の半ば。ぬけぬけ言い放ってみせた藪沼の、下卑た面。夫の前で悪びれもせず、職場での咲美を視姦した日々を語って聞かせる、無神経な男の、劣情にまみれた卑しき眼差しを思い出す。その都度、心臓がギュッと竦み、苦悶に見舞われた。

(あんな野郎に、僕は……最高のプレゼントをしようとしている)

奴への蔑みが高まるほどに、ズボンの奥で呻くように男根が脈を打つ。

どれだけ考えても理解の及ばぬ、不条理な情動にそそのかされるがまま。次第に異常を異常とも思わなくなりつつある、己を改めて空恐ろしく感じながら──。

智はさらなるステップに進む決意を固めた。

藪沼との密会から、ちょうど一週間となる日。智と咲美の姿は、夜の歓楽街──智と藪沼が不意の遭遇をした、あの店の前に在った。

二人共に頭上で煌めくネオン看板、「ラマン」と英文字で店名を掲げるそれを見上げて、息を呑む。

「全然、喫茶店って感じじゃないじゃん……」

現物を目にするまで、ネットカフェの延長のようなものと思いこんでいたらしい。余所行きの薄い青色ワンピースに身を包んだ咲美が、口を尖らせて夫を睨む。

「まあ、喫茶店というか、バーみたいな感じだよ」

カップル喫茶への入店は、こちらも初体験だ。藪沼からある程度の情報は得ていたが、いざ店を前にすると緊張が宿った。

持っている情報が少ない咲美の不安は、夫の比ではないはず。睨んでくる妻の目の色に怒りではなく恐れを見て取って、今さらの罪悪感が胸に刺さる。それでも夫は、今日に至るまでの労苦を無にせぬよう、妻の背を押した。

「大丈夫だって。入るだけ入って、嫌だったら出ればいいから」

「う、うん……智が、そう言う……なら」

嫌になったらすぐ帰るからね、と付け加えて、渋々といった様子で咲美が受諾した。その代価と言わんばかりに身を寄せてきて、手を繋ぐことを要求しもする。不安を拭うのに躍起となっているのが察せられた。

そんな妻のいじらしさに感激し、感謝して、内なる昂奮をひた隠しにしたまま。寄り添う彼女の温みが勇気をくれた皮肉に、心震わせながら。智は咲美の手を引いて、カップル喫茶の店内へと足を踏み入れた。

店内は、まさにお洒落なバーといった様相だ。ブラックライトが幻想的な空間を演出し、カウンター席の向かいにはぎっしりとボトルが並んでいる。シェーカーを振る若いバーテンダーと目が合うも、心得ているとばかりに彼の側が自然と視線を外す。

目が慣れると、壁沿いにソファーが設えてあり、幾組かのカップルが座っているのがわかった。カウンターにも二組。その内、二十代のカップルの隣に、ひとつ席を空け、浅岡夫婦は腰を落ち着けた。

バーテンダーに向かい、妻はカンパリソーダ、夫はビールをオーダーする。その際も咲美の緊張が声と手の震えという形で伝わった。

特に何事もなくオーダーを終えて待つ間。周りの客が誰も彼も普通に飲んでいるのが目に入るにつれ、拍子抜けする。

「案外普通だね……」

ヒソヒソ声で笑いかけてきた咲美の表情や仕草からも、ずいぶん硬さが取れていた。安堵した智自身も緊張を解いてゆく。すると、今まで抱えていた不安が失われた分、胸中に余白が生じ、心苦しさが湧いて出る。

思い出されたのは、今日妻をこの場へ連れ出すため連ねた、言葉の数々だ。

『普段とは違う、変わった刺激を得られたら、勃起不全に好影響があるかもしれない』

『智美なら、今度はうちの実家が面倒見てくれるって言ってるから』

『いつまでも智美を一人っ子にしておくのも、可哀想じゃないかな……』

特に三言目を発した際の、妻の困り顔を思い返すと、愛娘をダシに使ってまで欲望に傾倒する己の浅ましさを痛感し、今もひと際胸が痛い。それを誤魔化すようにビールを呷ると、頭の芯に熱が点った。