「……藪沼に誘われたでしょ。……温泉。智の望みどおり、藪沼に抱かれてみる」
最悪の予想の的中に、全身の血が逆流するような衝撃を受けた。かつてないほどに心拍の乱れた胸が、ギュウっと鷲掴みされたような痛みをひっきりなしに訴える。震えだした膝が、止まらない。
「ど、どうしてっ!?」
かつてあれほど望んでいたことであったにもかかわらず、酷く動転し。
「さ、咲美。も、もういい。いいんだ僕は、そんな無理に……」
気づけば必死になって咲美に翻意を促していた。
「できるかわかんない。でも、覚悟はしてる」
咲美の言葉が連ねられるたび、夢であってくれとの願いが裏切られる。
「咲美っ! いい、もういいよっ」
「どうして? 智が望んだことじゃん!」
その通りだ。だからこそ、思った。これは咲美の復讐ではないのか──と。
「もう決めたの。それしかないの」
いくら懇願しようとも、咲美の決意は覆らない。一度決めたら頑として譲らぬ彼女の強情さを知ってはいたが、それでも乞わずにいられなかった。
「僕が悪かったよっ。だから……咲美っ、もう、やめてくれ!」
己の心の在り様も、妻の心の在り様も理解できずに、焦りばかり蓄積されてゆく。
「なんで今さらそんなこと言うの? あたしだって辛いの! このままじゃ、前みたいには無理」
なぜ今さら──その言葉をそっくりそのまま返しても、彼女の決意は翻らないのだろう。それでも、なお乞いすがる以外の手立てが思い浮かばない。
「頼むから……咲美ぃっ」
子供部屋の智美が起きてくるかも──なんて気遣う余裕もなく、気づけば、まるで悪戯をして、母親に許しを請うかのごとく。声の限りにわめき散らしていた。
(僕が、僕が悪かった、だから──)
床に頭を摺りつけてすがる夫を見下ろしつつも、咲美の話は、止まらない。
「智、これは智のためにするんじゃないの。あたしの……ためだから」
その口調は、まるで彼女自身に言い聞かせているようでもあり。
「智はあたしが藪沼に抱かれることを望んだ。それは……あたしを愛してくれてるから……ってことで、いいんだよね?」
即座に首肯する。そこだけは、その想いだけは伝えておかねばならないことであり。伝えることで彼女が思いとどまってくれるのでは、との淡い期待が胸を衝く。
「あたしが汚れちゃっても愛する自信なかったら、そんな計画なんて立てないよね?」
続く言葉によって、淡い期待は露と消え。代わりにドロリと濁った泥を直に塗りつけられているような、不快感が喉にこみ上げた。
(ああ、この感覚は)
このひと月、思い出すこともなかったもの。先ほど一時的に再来するも、振り払えたはずのもの。愛していればこそ、汚れて欲しいと願う、歪の情念。焦燥と占有欲を刺激してやまぬ、汚らわしき妄執。
今も見据えてくる妻の目に、心の底まで見透かされているようで──またも禁忌に魅入られだしている己の心を、もはや認めぬわけにはゆかなかった。
「だからあたしは決めたの。智の気持ちを確かめるためにはそれしかないの。でないと、あたし……智のこと、もう信じられない。……智の愛情を確かめたいの。だから」
もしもこれが復讐だというなら、甘んじて受け入れる。
しかし、咲美は決して復讐など考える女性ではない。だとすれば、彼女なりに真面目に、考えに考えて、固めた決意なのだろう。
(その過程で咲美はどれだけ悩み、傷ついたのか……)
すべて察せてしまえる分、余計に辛い。
「ただし、一回きり。最初で最後。それから、智が他の人と寝るのは嫌」
「咲美っ」
何を言えばいいのか、言うべきなのか。ひとつとして思い当たらぬまま、それでも黙っていられなくて妻の名を呼ぶ。
「もう決めたの。わかって、智」
議論の余地はないと、彼女のまっすぐな眼差しが語っていた。そこには、もはや涙もなく。見つめられた夫は、また何もかも見通されているように感じた。
「全部言ったら、すっきりした」
最後に、咲美は本当に爽やかな顔をしてニッコリ微笑んでみせた。懐かしい、その笑顔。もう一度見たいと切に願っていたそれを目に留めた瞬間。堪えに堪えていたものが決壊し、智の瞳から大粒の涙が落ちる。
そうして、人目もはばからず泣いた。やがて涙が枯れ、赤い目で見上げられるようになるまでの一時間近く。愛妻は黙って、震える背を撫であやしてくれた。
3
峡谷を望む宿の大窓を開けると、秋の深まりを感じさせる冷え冷えとした空気が流れこむ。大窓の向こう、三階に位置する客室の外部に設えられた屋根つきの木調テラス。一人で入るのにちょうど良いサイズの檜桶に湯が張られた、各室備えつけの小露天風呂スペースもある、その空間に足を踏み入れて眼下を望めば、宵闇の中、ライティングされた紅葉が鮮やかに浮かんでいるのも見て取れた。
「今度は智美と三人で来ようね」
夫婦二人分の寝床が用意された和室を見回して、浴衣姿の咲美が語りかけてくる。智が答えに窮していると、咲美の表情にも影が差しこんだ。彼女もまた無理をして平素通り振る舞っていたに過ぎないのだと、気づいて一層智の内に苦悶が広がる。
咲美の帰還から、二週間経った、土曜日。一泊二日の予定で藪沼と連れだって訪れたこの旅館で、いよいよ禁忌の妄想が現実のものとなる時が、一つ上の階の藪沼の部屋へ咲美が向かう時間が、刻々と迫っていた。