ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

「ちょっと酔っ払っちゃって、気分悪くなったみたいで寝ちゃったんですよ」

受話器の向こうの男の声には、相も変わらぬ白々しさが漂う。

「もうこんな時間ですし、明日までこのまま寝かせてあげましょうよ。ねっ」

図々しくも言ってのけた言葉尻に、奴の期待と下心が透けて見えた。

「……っ、今から迎えに行きますからっ」

だめだ、苛立ちが隠しきれていない──フロントマンに不審がられていないか横目で確認。幸いにも別な業務に勤しむ彼らには、気にされてないようだ。

「ご主人、何を今さら焦ってらっしゃるんですか?」

直後に届いた藪沼の言葉に、胸が詰まった。

「元々この話はあなたから言い出したことじゃありませんか。第一、もう奥さんは私と情を通じたんですから。今さら、同じじゃないですか」

(……情を、通じた? ……咲美が、藪沼と。あれほど嫌ってた男と……)

当たり前のごとく発せられた奴の台詞が、凍りたての心臓を深々抉る。

「……たっぷり、ジリジリしてください」

この状況を楽しみたかったんでしょう、と──下卑た笑みと共に奴が言う。

「いやあ、最高に可愛いですよ、奥さん。ごちそうさまでした」

まるで今日の飯の感想のごとく言ってのけた奴に対し、瞬間的に憤怒が突き抜け、遅れて、あの忘れじの味わい、腰の芯からもたらされるどす黒い情念が渦を巻く。

「まあ、もう少ししたら起こしてお返ししますので、ご安心ください。私、裸なんで失礼しますね」

「待っ……!」

返答を待つことなく、通話は一方的に打ち切られた。

──いいように藪沼にあしらわれて、何をのこのこ部屋に戻っているのだ。

──奴の言う通り、待つ間のジリジリ感を楽しむ気になったからだろう?

部屋に戻っても、自問自答が続く。ハンガーにかかっている、咲美のベージュのコートと薄水色のマフラーに自然と目が留まった。

──僕の妻が、咲美が、ついに藪沼と結ばれた。

(……まだ、藪沼が出まかせを言っている可能性だって……)

──あれほど毎日妄想して、オナニーして、望んでいたことだろう?

(……ああ、そうだ。その通りだともっ。卑しい僕が望んだんだ、咲美をあの野郎に……なのに……っ)

いざ現実のものとなったと告げられて以降、欠片も想像がなせなくなってしまっていた。咲美を巻きこんでおいて、この体たらくはなんだ。我が身の勝手さに、苛立ちを覚えずにいられない。

「くそっ……僕は、咲美を……ッッ!」

畳の上に拳を幾度も打ちつけた。ジンとした痛みはすぐさま苛立ちの糧と化す。悪循環から抜け出せぬまま、いてもたってもいられぬ気持ちだけが膨張してゆく。

改めて見た腕時計の示す時刻は──午前二時をとうに回っている。藪沼との通話から、かなりの時間が経過していた。

ジリジリと身を炙り立てる焦燥に耐えきれなくなって、再度、咲美の携帯電話番号を呼び出し、プッシュする。

二度、三度、四度──五度目のコールだった。

「……もし、もし……」

ようやく聞くことのできた愛妻の声は、心なしか掠れているように思える。

「咲美っ!!」

皆が寝静まっている時刻であるのも忘れて、声の限りに吠えた。返答は、ない。

「ど、どうしたんだ、僕だよっ。ひょっとして、気分が悪いのかっ?」

必死に呼びかけているのに、電話の向こうの妻はだんまりを決めこむ。彼女の表情が窺えないことに加えて、時折聞こえてくる衣擦れの音、水が掻き混ぜられるような音。諸々に心乱されるのと同時に、また──罪深き夫の腰の芯が疼きだす。

(咲美は、僕の妻は今、いったい何をしているんだ……!?)

「……と、智……っ」

思わず股間に手を伸ばした矢先に、ようやく愛妻からの応答があった。やはり声は掠れ、震えてもいる。何かに怯えるような、ひそひそ声。違和感が強まる。

一秒たりとて無駄にできないと思った。

「む、迎えに行くよ、今から」

告げながら立ち上がり、部屋の入口へと向かう。急く拍動に押されてスリッパに足を通した直後。

「智っ……い……いいの……」

一層震えた声で夫の名を再度呼んでから、彼女は告げた。

「えっ? い、いいって、何が」

意味が理解できずに、問い質す。スリッパに通したまま前に踏み出せないでいる足が、焦れに焦れて地団太を踏む。

「う、んっ……も、もう少ししたら、も、戻う、はら……」

不自然にくぐもった響きとなった咲美の言葉尻に、不安が増大する。

「……も、戻る、から……」

言い直したそこにも、粘着質な──唾液が糸を引くような──響きが伴っていた。

「一体、どうしたんだよっ」

不安と恐怖に押し潰されそうになった挙句に、怒鳴り散らしてしまった。咲美は悪くないのに、最低だ──放ってすぐに自己嫌悪に苛まれる。

──その想像は絶対に当たってるよ。今も、咲美は藪沼と……。

胸内で囁かれるもう一人の自分の言葉。それに伴って、思い出せなくなっていたはずの禁忌の妄想が、せき止められていた分一気呵成にフラッシュバックした。

「だ、大丈夫……す、すぐ戻るから……」

言い訳を拵えながら、藪沼と肌を絡める妻の様が。

「……ッッ!! ぅぐ……っ!!」

思い浮かんだ瞬間から、酔いのせいではない眩暈が再来し、まっすぐ立っていられなくなる。とっさに壁に手をつくと同時に、狂おしくも愛しい熱が腰の奥に漲っているのを知覚した。