(咲美は……どうして止めてくれなかった、って怒ってるんだろうか? それとも嘆いてる?)
彼女の今しがたの声に抑揚はなく、帰宅してからずっと表情には覇気がない。夫の体調を案じていると言われればそう見えるし、落ち込んでいるとも受け取れた。静かに怒りを溜めていると言われれば、そんな風にも捉えられる。
伴侶の心情が窺えぬ不安から、未だ智は一言も発せられずにいた。
「あたしは……桂子さんが智の手を握った時、すごく腹が立った」
夫の逃げ道を塞ぐように、まず自らの心情を吐露した後。
「智は、どんな気分だったの?」
もう一度、咲美が淡々と最初の質問を口にする。
詰問されているような気分にさせられながらも、先の咲美の素直な告白に釣られるように、智の口からようやく、想いの一端が漏れ落ちた。
「……僕も、ムカついたよ。決まってるだろ。あんな奴に……。正直言うとすぐに石鹸で手を洗ってほしいくらいだった」
咲美が無言で見つめてくる。
「嘘でもなんでもない。今でも嫌な気分だ」
何もかも見透かされている気がして、弁明するように繰り返す。綴ったその言葉には、天地神明に誓って偽りは含まれていない。
「それだけ? 腹が立った、だけなの?」
けれど、咲美は、まったく揺るがぬ眼差しを鏡面越しに注いでくる。消して振り向かない彼女の背中が「洗いざらい話して」と語っている気がしてならなかった。
「……いや」
もう、話す他ないのか。話すべきなのか。
「腹が立って、すごく、嫌な気分なのは、本当だよ……で、でも、また……」
逡巡しつつ口ごもった夫の背を押したのは、
「昂奮したの?」
平素に比べて、ずっと低い妻の声音。感情のこもっていない、問いかけだった。
(……言えるわけ、ないじゃないか)
喉を衝きかけた言葉を呑みこんで、鏡台に歩み寄り、妻の背を抱き締める。許しを乞うようにすがりつき、咲美の髪から香るシャンプーの匂いを嗅いだ。タオル越しの愛しい温みと柔らかさに、意識を溺れさせる。
「咲美っ……僕は……」
嗅ぎ慣れた香りに誘われるがまま、愛妻の首筋に口づける。次いで頬ずりし、抱き締めた腕に力をこめることで胸に湧き起こる想いの程を伝えた。
「待って、智」
咲美の声は──冷静だった。
彼女の背に摺りつけていた顔を上げる。すると、鏡面越しの咲美の瞳がまっすぐに見つめていた。一点の曇りもない、凛々しいその瞳に圧倒される。
「隠し事なんか、してないよね?」
火照りだしていた心臓に、冷水を浴びせられたような気分だった。
「な、なん……で?」
狼狽えた声音を発してすぐ、しまった、との後悔が湧き起こる。勘繰られている状況下で、白々しく掠れた返答がもたらされた。その意味に気づかぬほど、咲美は馬鹿じゃない。
「なんでも。ただ、何となく、だよ」
言いながらも、咲美はジッと鏡面越しに夫を見据え、観察し続ける。
またボロが出るのではと思うと、下手に弁明もできず。結局、藪沼宅でそうしたのと同様、無言を貫くこととなった。それが、どのような意味で妻に受け取られるか、わかっていたのに。
長く続いた沈黙を破ったのは、相変わらず感情のこもっていない発音。
「智は……あたしに藪沼と寝て欲しいの?」
心臓が一瞬凍りついた。少なくとも智自身はそう知覚した。
「本当のことを言って欲しいの」
「ほ、ほんとのことってなんだよ、訳わかんないよ」
──ああ、だめだ。また震えている己の声に、落胆する。
「智が嘘ついてるとき、わかるの」
「だ、だから……何が?」
この期に及んで悪あがきをした。それにより、妻の瞳にも落胆が差しこむ。
「本当のこと言ってくれたら、考えてもいいよ」
ドクリ、とひと際高く、智の心臓が跳ねる。強烈な誘引力を備えた彼女の言葉と、鏡面越しの射貫くような眼差しに、これ以上抗うことはできない。
時が止まったかのような静寂を過ごした後。
「ごめん……」
謝罪の言葉を漏らすと、今までの躊躇いがなんだったのかと思うほど、次々に口を衝いた。
始まりが、夜の歓楽街での藪沼との不意の遭遇だったこと。どうしようもない、妄想が浮かんだこと。罪の意識に駆られながら、計画を立ててしまったこと。
カーセックス、カップル喫茶、ファミレスでの会食、藪沼宅での催し。すべてが計画の内だったことまで。
すべてを話し終えた時、黙って聞いていた咲美の掌が振りかぶられた。直後に頬に平手打ちを食らい、ようやく振り返った咲美と直接対面する。咲美の目から溢れた涙が止め処なく滴っていた。
──その後のことは、あまり覚えていない。
咲美は、おそらく一言も発しなかった。無言で涙を流しながら、ひたすら、罪を犯した夫に拳をぶつけてきた。女の細腕とは思えぬ力を延々浴びせられたのに、その痛みを覚えていないのは、強過ぎるショックと動揺に心が麻痺していたからだ。
部屋を飛び出して隣室の智美の部屋に入ったまま、咲美は出てこなかった。
眠れぬ夜を過ごし、明け方近くに夫が記憶を途切れさせたのを見計らったかのように、咲美は娘を連れて姿を消した。
(全部僕が悪い。こうなるのも当然。それだけのことを、しでかしてしまったのだ)
悪夢から覚めた気分で悔いてみたところで、すべては後の祭り。しでかした罪が消えるはずもなく、失った幸せが戻るわけもない。