3
やたらと蒸し暑い、ある平日。智は営業の仕事の合間を縫って、咲美の勤めるスーパーストアへと足を運んだ。
初夏の装いに彩られた雰囲気の店内は、多くの買い物客でごった返している。咲美の持ち場が生鮮食品売り場だということは知っていた。妻に会うには、まっすぐそちらへ向かえばいい。
だが、今日訪れたのは咲美に会う、それだけが目的ではない。
『明日のセール、憂鬱。だって藪沼が絶対ウロウロするから』
罪深き夫の脳裏に、妻が昨晩発した言葉が甦る。心底うんざりした表情と口調で紡がれた台詞。その忌み嫌われた相手をこそ、真っ先に探した。
先に妻と鉢合わせせぬよう、生鮮食品売り場にだけは近寄らず。不審がられぬ範疇で周囲を見渡しながら、店の隅々にまで目を光らす。
(……いた!)
どうか生鮮食品売り場以外に居てくれと願い探っていた智の視界に、遠目でも目当てのそれとわかる姿が飛びこんできたのは、入店から三分ほどが経った頃だった。
半袖のワイシャツに赤いネクタイ。首から社員証をぶら下げ、脂肪をベルトからはみ出させた男が、和菓子売り場の女性客とニヤニヤしながら話しこんでいる。
──藪沼だ。近づきながら顔を確認すると、智は一度踵を返して生鮮食品売り場のある方角に目をやった。耳も澄ませて、そちらから人が訪れそうな気配、物音のないのを確かめ、一層の緊張を身に宿す。
(咲美に見つかったら、計画はパーだ。急げ……っ!)
いつ妻がやってくるともしれぬ不安を抱えたまま、決行の意思を固める。智は、改めて藪沼のいる方向へと足を向け、一気に距離を詰めた。
「おや?」
あえて目につくようにきょろきょろしながら近づいた甲斐あって、藪沼はすぐに近づいてくる存在に目を留めた。
「この前はどうも」
わざと前回の話を振った智を、困ったような、一方でどこか嬉しげな形相で見つめながら。藪沼はそそくさと女性客のそばから離れ、智の前へと摺り寄ってきた。
「奥さんなら、向こうの売り場にいるはずですよ」
「はい。ありがとうございます」
また、あの夜と同じだ。白々しい会話を交わしながら、智は思う。
藪沼はその細い眼でしばらく見つめてきたが、分厚い唇を少し歪めるようにして笑うと、言った。
「先日は失礼しましたな。驚かれましたでしょう」
しきりにむずついている奴の唇が、言葉で語らずとも示している。
(この下卑た男は、語りたくて仕方がないのだ。あの夜の続き……スワッピングの自慢話を、咲美の夫である僕に)
さすがに職場ではおおっぴらに話さないだろう。だが、場所さえ変えれば、必ず語りだす。
確信が持てたことで、智の秘めたる計画も、いよいよ現実味を帯び始める。
(……咲美と藪沼が、なんてのは僕の想像の中でしかありえない話。僕は咲美を……信じてる)
その妻を裏切ろうとしている己の行いは棚に上げ、彼女の貞操観念の強さにすがった。
(それに、もしうまくいったとして、危うい所でやめたっていい。仕掛け人の立場でいさえすれば、ストップをかける権利を有し続けられる)
保険はかけてあると、繰り返し胸の内で反芻した末。抗えぬ誘惑に押されるがまま。
「その、件で。お話ししたいことが、あるんですが……」
智は、声に混じる震えを極力隠して、言葉を紡いだ。
「……ほう」
藪沼の細い三白眼が、値踏みをするようにねめつけてくる。そうして一分ほど、互いに無言で視線を交わし、腹の内を探り合った後。藪沼は、また分厚い唇をニタッと緩め、短く「お伺いしましょう」と告げた。
4
藪沼と二、三言交わした後。何食わぬ顔を装い、智は咲美の前に姿を見せた。
「あれ? どしたの」
爽やかな薄緑色の制服を身に着けた、妻。咲美は、夫の顔を見つけるなり歩み寄ってきて、突然の来訪の理由を尋ねる。小首を傾げながらも、彼女の表情は、職場での予期せぬ遭遇を喜んでいた。
自宅で出迎えてくれる際と同等に華やぐ妻の笑顔に、罪悪感を抱かされながら。
「うん、営業でこっち来たからちょっと寄ってみた」
また、嘘をつく。
「お弁当食べたの?」
毎日こしらえてもらっている愛妻弁当は、すでに腹に収めて空となっていた。咲美の料理は薄い味つけが基調だが、それも夫の身体を気遣ってのことと承知している。
(薄味なのを勘案しても、世界一美味い)
平素であれば、誰に聞かれても胸を張ってそう答えたであろう愛妻弁当。その味が、今日ばかりは気が急いていたために、ろくに記憶に残っていない。
「いや、まだ。飲み物買おうと思ってさ」
咲美に対する申し訳なさばかりが募る嘘をまた連ねて、智は繕い笑顔を浮かべた。笑顔のぎこちなさを補うための嘘も、昨晩すでに連ねてある。夫の口から伝えられた「また夏バテ気味」という嘘を、咲美は信じきっていた。
「待ってて。冷たいお茶でいい?」
「うん」
夫が嘘をつくとさえ思ってないだろう妻が、愛する者の疲れを癒そうとにっこり笑みかけてくれる。そうして照れたようにはにかんでから、小走りに駆けてゆく。
遠ざかる彼女の背中を目で追う智の胸中は、後悔と懺悔の思いで満杯となった。
──いつも夫を想ってくれる、あんないい妻を、罠に陥れようとしている。
(咲美を愛している、だからこそ僕は……)
他人に抱かれる彼女の痴態を夢想して激しい嫉妬で狂いそうになるのも、愛すればこそだ。嫉妬するたび愛情の深さを再認識し、誰にも奪われぬようにと、咲美の心と身体をこれまで以上に愛でてゆける──。