ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌

今宵の第一の目的は、「平素の夜の営みでは勃たなかった夫の股間が、状況が違えば著しく反応する」と咲美に知らしめること。よって、勃起を彼女に触れさせた時点で目的は成っていた。

(全部見越して策を講じたのは、他の誰でもない。僕自身じゃないか)

今回に限っては藪沼に非はない。理性の諫めにより怒りを消化しながら駆けること、一分弱。途中、往来する客にぶつかったせいで手間取ったものの、ちょうど店を出た所で、咲美の背を捉えた。

「ごめん! まさか藪沼が来るなんて」

「ありえない、もうっ、どうしようっ」

咲美は動揺が大きく、冷静な判断ができそうにない。追いついてきた夫の右手に右の二の腕を捕まえられていなければ、足を止めず歓楽街から駆け去っていたに違いなかった。

「落ち着いて」

できるわけがないのを知りつつ語りかけ、自身も慌てている風を装うことで「それでも妻の身を先に案じる夫」を演じる。

「落ち着いてられないわよっ。もうっ、なんで藪沼がいるのよぉ……」

明日からの職場での藪沼との対面を憂い、嘆く妻。夫はその言葉をこそ待っていた。

「こんなお店来なきゃよかった……」

「でも、向こうだって同じ気持ちじゃないかな。このまま帰るとかえって気まずいよ。一言挨拶すればなんてことないって」

夫の宥めを、妻が取るに足らぬ慰めと捉えるか、否か。そこは重要じゃない。

肝要なのは、咲美が考える時間を設けること。長じて、藪沼が店に居た理由も多少意識してくれたなら、文句なしだ。

夫の引き留め工作にまんまと嵌まった妻が、無言で俯き、足を止めること、一分と少々。打ち合わせ通りに藪沼と、連れの女性が追いつく。

「浅岡さん! いやあ、申し訳ありません! 気まずいことになってしまって。どうかお気になさらないでくださいっ。……とにかく、こんなとこじゃ何ですから……」

平身低頭、矢継ぎ早に話す男の顔を、終始咲美は直視できないでいた。

そして──。

三十分後。

「いやぁ、浅岡さん。大変失礼いたしました。どうか、ご容赦ください」

カップル喫茶ラマンからもそう遠くないファミリーレストランの一席で、浅岡夫妻は幾度目とも知れぬ藪沼の謝罪を受けていた。

「もう結構ですから。どうか頭を上げてください。お互いに水に流すということで。……咲美も、それでいいよな?」

計画の片棒を担ぐ智が取りなすと、隣席の妻は正面の藪沼夫妻を直視できぬまま、小さく首肯する。

「そう仰っていただけると、こちらとしてもありがたいです。では、早く忘れるためにも、一杯。グッとやって水に流しましょう!」

図々しい藪沼の性分が、こんな時ばかりは奏功する。すでに各人の前に置かれているビールジョッキを順に眺めた後。率先して奴が音頭を取った。

「では、乾杯!」

グイッと杯を傾け呷ってから、藪沼はこれまたすでにテーブルの中央に置かれている料理に手をつける。そうして、以前に焼き鳥屋で見せたように、頬張ったものをクチャクチャと噛む音を響かせだした。耳触りの良くないその音を前に、咲美が眉をひそめたのが、隣席の夫の目にのみ留まった。

「主人が謝ったばかりでする話でもないんですけど……ああいったお店を楽しむのは、恥ずかしいことじゃないと、思うんですよ」

夫の食い方を諫めもせずに、その隣に座る女性が口を開く。

けいと名乗った彼女──藪沼の妻は、やや小太りで、パッと見、四十代後半ほど。茶色がかったショートカットで、少し吊り気味の目は左右にだいぶ離れている。エラが張っていて、唇は薄い。お世辞にも美人とは言えないが、若作りの化粧と服装で奇妙な妖艶さを放っていた。

「そうですよ。僕らみたいな爺さん婆さんでも利用しているくらいです」

藪沼が妻の言葉を肯定する。相変わらず俯き黙っている咲美は気づいていなかったが、奴が助平な視線で彼女を舐っているのを、智ははっきりと視認した。

奴の一人称が「私」からより馴れ馴れしい調子の「僕」に変わっているのにも気づいてしまい、憂鬱が深まる。

「よく、ご利用なさるんですか」

喉を衝きかける藪沼への蔑みを呑みこんで、智はなお片棒を担いだ。

余計なこと聞いて──と怒れる咲美にテーブル下で腿を抓られたが、表情はなんとか平静を保った。夫が話に乗ったのも、痛みを顔に出さぬのも、相手に失礼のないようにとの配慮から。咲美はきっと、そう受け止めたはずだ。おかげで、演技のぎこちなさにも理由がつく。

次に語られる言葉こそが、肝要なのだ。自らの練った内容が紡ぎ出されるのを期待して智が見つめる、その先で。タレのついた唇をひと舐めした藪沼が口を開く。

「いやあ、実は常連なんですよ。恥ずかしい話ですが、歳が歳なんで、一時期あっちの方がまったくダメになりましてね」

藪沼の突如の告白に、咲美が小さくピクリと反応を見せた──ような気がする。

「でも、ああいう店に行ったり、色々刺激を受けるうち、今では元気過ぎて困るくらいになっちゃいました。ハハハ」

俯いていた咲美の顔が上向く。またも一瞬の出来事だったが、はっきり視認できた。

「浅岡さんご夫婦はお初ですの?」

「はい……まあ」

「失礼ですが、何か刺激を求められたんですかな?」

桂子が話を振り、智が応じて、藪沼が乗っかる。すべて、予定通りの流れだ。